日朝間の朝貢関係
次に、日本と朝鮮半島圏の朝貢関係にスポットを当ててみよう。先述したように漢の時代以前から日本と中国の間には朝貢の記録があり、それによって倭の五王が朝鮮半島南部の軍事、裁判権などを認可されている。
この朝貢は、中華圏の一部である朝鮮半島圏において近隣の秩序の安定を図る小中華構想といえるものであった。今日では朝鮮半島圏安全保障構想とでもいえようか。
当時百済は中国南北朝時代の南朝、高句麗は北朝の朝貢国であったようだ。倭国は、新羅(しらぎ)、任那(みまな)、伽耶(かや)など朝鮮半島六か国の叙任(じょにん)(任命権)が認められていたようである。
南北朝時代になって北朝の隋が中国を統一した際、聖徳太子によって使いが派遣される。この朝貢は従来の朝貢とは一線を画するものである。小野妹子が隋に持参して煬帝の不評をかった太子の書「日出づる処の天子、書を日没するところの天子に送る恙無(つつがな)きや」の表現にうかがえる倭国の気分は、正に「小帝国」を気取ったものだ。
日本は中華帝国を中心とした世界において、地理的にも気分的にも、アウトサイダー的立場にあった。もちろん唐側からは新羅などと同程度の朝貢国とみなされていた可能性もあるが。ただし渤海や突厥などの冊封国(臣下国)よりは一応上位と見なされていたようだ。
六六三年(天智天皇二年)、朝鮮半島の友好国であった百済(くだら)が、唐と新羅(しらぎ)の連合軍の攻撃を受けて、国家消滅の危機に直面した際、日本に救援を求めてきた。百済の消滅は、百済と新羅の対立を利用して任那(みまな)の調(ちょう)(産物租税)を貢納させていたとみられる倭国にとって、朝貢外交の破綻を意味するものであった(地域安全保障の崩壊)。
このため百済の要請を受け入れ、その復興を企図して救援に向かう。
しかし日本軍は、朝鮮南西部の錦江河口付近での「白村江(はくそんこう)の戦い」(海上の戦い)で圧倒的に優勢な唐・新羅の連合軍側に大敗する。
【前回の記事を読む】インド侵略を完了した英国は中国との貿易に着手する。しかしそれは欧米のルールに倣う不平等関係であった。