第二章 イヨロンド

「こんな傷は唾でも付けておけば治ってしまうわ」

横着な口を利きながら、イダの皺だらけの両手は、傷口ではなくシルヴィア・ガブリエルの胸や腹、鳩尾(みぞおち)を探っていた。

村にいた頃、山向こうの異民族を見たことのあるシルヴィア・ガブリエルであったが、この老人ほどに珍奇な者に会ったことはない。

その老人がなぜ先ほどから傷を治すでもなく自分の体をあちらこちら探るのか。老人の訝(いぶか)しい仕草に堪りかねて、「何か?」と声をかけた。

が、老人は耳に入らぬというよりは、まさぐる指先に意識を集めて他事を無視するかのようにずっと彼の体を探り続けている。まるで指先についた耳で彼の体の鼓動やら血液の流れる音でも聞いているかのような仕草だった。

やがて手を止めたイダは首を傾げ、「お前……」と何か言いかけたがそのまま口を噤(つぐ)んだ。

もともとが計り知れない表情の老人だが、黙ったまま何か考え事をしているイダの様子が、秘密を抱えているシルヴィア・ガブリエルには堪らなく不安だった。

もうよろしいです、と起き上がって逃げ出そうかと考えた時、やっとイダが口を開いた。

「お前、アンブロワの者なのか?」

いかにも疑り深そうな声だった。

「いえ、アンブロワにはつい先日来たばかりで、生まれは違います」

それを聞くと、イダは自分の中で何か腑に落ちなかったことに合点したように頷いた。

「じゃろうな。どこの生まれだ?」

「はあ、ご存知ではないと思いますが、ヴァネッサという、グランターニュ山脈を越えた先にある小さな村です」

領主らについた嘘を繰り返したが、彼らに言った時よりもよほど緊張した。