第二章 イヨロンド

彼女にはもう誰でもよかった。

シャルルでも、従者の若者でも、カザルスでも、とにかく自分が長年かけて掴み取ってきたものをごっそり奪い取っていったもの、あるいはここぞという土壇場で、最後の最後に自分を見放してしまった運に、彼女は無性に腹が立って、この怒りの矛先(ほこさき)をどこかに突き立てずにはいられなかった。

目の前に美しい髪が揺れる。彼女はそこを目掛けて思いっきり突進した。

短刀は目の前の若者の背中に今しもずぶりと突き刺さるところであった。が、彼女の手にはその鈍い感触が伝わらずに、それどころか急に切っ先は空(くう)を切り、勢いあまった彼女は短刀を手に掴んだまま、気がつけば床に転がっていた。

何が起こったのか彼女にもよくわからなかった。ただ、狙った若者は今や床に転がったイヨロンドの背後におり、立ったまま上から彼女を見下ろしていた。

「乱心! 乱心でございます!」

部屋の中で小姓たちが大声で叫んだ。

その声に驚いて戸口から立ち去りかけていたカザルスとバルタザールが一斉に振り向く。

床に突っ伏したイヨロンドの手にきらっと光る物を見て、彼らは血相を変えて立ち戻った。

「何事だ!」

バルタザールが叫ぶ。色を失って立ちすくむシャルルは瞬きもせず、声を漏らすこともできない有様であった。

突っ伏したイヨロンドの手から指をこじ開けるようにして短刀を奪い取ると、切っ先にわずかな血の色。振り返ると立っている若い従者の胸着の左脇が切れていた。

「傷を負ったか?」