個人の所有馬は二頭だった。祖父が大学時代の親友で大金持ちの栗山(くりやま)さんと共同で預けている栗毛(くりげ)のアート。顔を寄せるとお日様の匂いがするアートは僕も大好きだった。

栗山さんが身体を壊してなかなか倶楽部に来られなくなったので、祖父は俺が調教してやると張り切っていたが、性格も頭も良いアートは、指示を出される先を見越して行動するので、どちらが調教師なのか分からないありさまだ。性格が穏やか過ぎて競走馬には向かないと言われたらしいが、歩様(ほよう)が美しく毛並みがつやつやして馬場競技(ばばきょうぎ)に期待されていた。

もう一頭の馬主さんはIT企業の若い社長の宮園(みやぞの)さんで、がっちりした鹿毛のルイに乗っていた。宮園さんは海外ハイブランドのロゴが眩しいオーダーメイドの見事な鞍(くら)を愛用していた。ある雨上がりの日、宮園さんが意気揚々と連れてきたモデル級美人の彼女を乗せたルイが、何を思ったかいきなり馬場の水溜まりで横になった。

「あっ、危ない!」

クラブハウスの窓から眺めていた全員が総立ちになって叫んだが、宮園さんの次の一言で、みな座り直して下を向いた。

「大丈夫だったか? 鞍は!」

鞍は見るも無残に泥だらけになったが、モデル級美女は長い手足を活かした運動神経を発揮して、寝転んだルイから素早く飛びのき、かすり傷ひとつ負わなかった。悠然とクラブハウスに戻った彼女は、心配して騒ぐ皆に特上の笑顔を向けた。それから宮園さんに向き直り、厳しい声で言い放った。

「馬は性に合わないわ、移動はスポーツカーだけで結構よ」 

その後、有名ファッション誌の表紙を席捲することになる彼女が、宮園さんとの良好な関係を続けたかどうかは、誰も知らない。