「……長い間彼は恍惚としたこの上ない幸福感のうちに浸りながらこうした全てのもののもたらす陶酔に身を任せていた。己の魂が体中の毛孔を通じて、こんなに広くこんなに清らかな空から、調和と歓喜とを吸いこませていたのだった。……」(『スマール』)
自然を前にして開かれる魂、自然を知覚するフローベールの独特な仕方は、後(のち)に彼を自然=神との一体化による恍惚体験に導く下地となっている。
スマールはこのエクスタシーに長い間浸り陶酔にいつまでも身を任せているが、現実では『11月』の語る汎神論的体験も〈無限〉の完全な所有を許すものではない。
自然=神との合体作用がもたらす宗教的法悦にも通ずる恍惚体験も、最後のところで宗教的感情からも離れてしまい、次のような記述が続く。
「だが、それだけの事だった。すぐにこの世に生きている身である事を思い出して我に返った。……さっき思いもかけない幸福を覚えていたのと同様名づけようのない失望に陥った。……同じ道をひき返した。砂の上に自分の足跡をみつけ、草むらの中のさっき横たわった場所を再びみた。さっきは夢をみているように思われてきた。」
この体験は現実の世界にたち返る時、存在に幸福の持続を与えてくれないのである。さっきのエクスタシーは、そこから引きはなされた今の自己ともはや何のつながりもない程遠いものとなってしまう。
注1) M. Reboussin, Le drame spirituel de Flaubert, Paris, Nizet, 1973.
注2)J. Bruneau, Les débuts littéraires de Gustave Flaubert, Paris, Armand Colin, 1962.
【前回の記事を読む】青年の恋は、無限の始まり。恋への情熱は、果てしない恋の夢であり、空虚な現実でもある