ベリル海岸での体験を記述したこの『野を越え、磯(いそ)を越えて』(1847年)は、『初稿感情教育』(1845年)の後に書かれたものであり、スピノザの汎神論の影響も考慮しなければならないだろう(フローベールの『エティカ』の読書は1843年末と推定されるので注2)。

それにここでも、〈……自然の力の何か生命をおびたものが、おそらく視線にひきつけられて僕達まで届き同化されると……〉〈……一心に浸透し入り込んだ結果……自然の中に拡散し……〉という表現にみるように、この同化合体作用は諸感覚、とりわけ視覚に負い、又かなり意識的な精神の集中作用によって生じる事が読みとれる。

そしてこの感覚が今度は逆に、周囲に対する意識として絶えず外界から刺激を受け、精神の集中を妨げ、存在を完全に自然の中に消滅させない事にもなろう。

ところでフローベールのこれら三つの海を前にした恍惚体験には、今一つ共通項がある。それは、みな長時間、長距離の歩行に先立たれているという事である。

自然の中での歩行運動が肉体のみならず心に与える高揚感、つまり規則的リズムをもった長時間にわたる歩行が、肉体的には疲労を与えながらも、心からは雑念を払って空(くう)にし、一種の夢見心地の状態を作り出している。この状態は自然への熟視が作り出す状況とならんで、自然への融解に導いていく一つの条件ともなろう。

こうしたいわば半睡状態では、意識は半ばもうろうとしながらも完全な自我喪失とはちがって、周囲に諸感覚を働かせることも出来るだろう。フローベールの体験は、意識の完全な合体拡散というより、半ば自己を失い半ば周囲の自然を諸感覚によって知覚できる半睡状態を思わせる。

ともあれ大切な事はフローベールがこうした体験を通して、直観的に魂と自然の和合の喜び、自然界の広大な調和を知った事である。そしてたとえ瞬時といえどもあの〈無限空間〉への自我の融解をはたした事である。

が、この魂と自然との相互浸透作用は、すでに『汝何を望まんとも』に現れ、『狂人の手記』『スマール』にも相次いで表現されたものである。