呆然としたまま傍らのバルタザールに目を遣ると、彼も無言のままその目の動きだけで驚きの表情を返してきた。
その忘我と恍惚(こうこつ)の時間の中にシャルル・ダンブロワの無粋な声が割って入った。
「カザルス殿、ご機嫌よろしゅうございます。お健(すこ)やかそうなご様子で何よりでございます」
何がお健やかだ、至福の時を妨害した声に少々機嫌を損ねながらもカザルスは、
「おお、アンブロワのシャルル殿、久しぶりじゃ、よう来られたな」と儀礼的に言葉を返した。
例の書状を送って寄越した無礼を詫び、それに至った経緯についてシャルルが何か慇懃に喋っていたが、カザルスの耳には煩わしいばかりで何も入ってこなかった。
それどころではなかったのだ。
先ほどの若者がシャルルの口上の間に、あたかも羽化した蝶が初めてその濡れた羽を開くかのように、伏した目蓋(まぶた)をゆっくり開けてカザルスに一瞥をくれた。
深く暗く水をたたえたようなその瞳の美しさに思わず「おお!」と声を発してしまいそうになるのをカザルスはやっと堪(こら)えた。
それでも堪(たま)りかねて、「見事じゃ」と小さく呟いた。
【前回の記事を読む】届いた一通の書状には、面白い筋書きが書いてあった。強欲女のイヨロンドの悔しがる顔が目に浮かぶようで愉快になったが…
次回更新は10月26日(土)、18時の予定です。