第一章 夢はいつか海外で

遠い海外

一九九二年一月、新商品のコンセプトを決めるため、コンピューター・ミュージックの先進国であるアメリカに出張することになった。

ロス・アンジェルスにあるUSA現地法人の統括本部に同期入社の三人が勤務しており、全米楽器ショーを見学後、そのうちの一人の自宅で同期会インUSAを行うことになった。

同期入社でありながら、国内ではできない経験をし、英語を使って仕事をしている彼らと、英語もほとんど聴きとれず国内で何年も同じような仕事を繰り返し、進歩のない自分とはずいぶん差がついてしまったような気がした。

学生時代、音楽が好きなこともあったが、将来は海外を股にかける仕事をしたいと思って、就職先に商社を通さず海外展開している楽器・音響メーカーを選んだ。しかし、正式配属は国内営業となり、何度か海外勤務の希望を出したが、希望は叶えられなかった。

アメリカから帰国後、早速、NHKのラジオ講座やTV英会話を視聴し、社内の英語講座にも参加した。同時に自己申告書で海外勤務希望を再び申告したが、すでに四十歳を超えていたせいか、声はかからなかった。

四十代半ば、上の子供が高校生、下の子供が中学生になると海外への転勤が面倒になり、海外勤務の申告をしなくなった。ところが五十歳手前になると会社人生の着地範囲が見えてしまう。そのうえ、五十五歳になれば役職定年となる。

どうせなら、若いころからの夢であった海外勤務を実現したいと思い、年齢を考えると難しいと思いながらも再び自己申告書には海外勤務希望と記入した。

ちょうど五十歳の時、管理職研修があり、役員との面談では五十五歳以降の希望進路について訊かれた。私は迷わず「海外の現地法人への出向を希望します」と答えたところ、「欧米は年齢的に無理であるが、中国なら可能性がある」と言われた。

とりあえず中国語の勉強を始め、二年後、二〇〇五年三月、五十二歳で日常会話程度といわれる中国語検定三級に合格することができた。