3 私の生い立ち
両親は音楽好き
私は一九四八年に、杉並区高円寺で姉と弟二人の四人兄弟の長男として生まれました。小学校は三年生の一学期まで宝仙学園、その後、千代田区立番町小学校に転校しました。
中学は千代田区立麹町中学校、そして高校は都立城南高校(現在は都立六本木高校)、大学は東京理科大学で学びました。
父の小野勝は、趣味で尺八を吹いていましたが、職業としては国立療養所東京病院(現在は国立病院機構東京病院)の肺結核の外科医長で、コロンボ計画でタイやインドネシアに行き、指導もしていました。
伯父の小野衛は作曲家で、箏曲家の宮城道雄の養嗣子になった人です。邦楽(地歌・箏曲)の演奏家でもあり、作曲家でもありました。記譜を五線譜にしたり、洋楽を取り入れた作曲をしたりしていました。
私の結婚式では、お琴の演奏をしました。なお、宮城道雄はお正月にテレビ番組などでよく聴く『春の海』を作曲した人です。
母のさとは宮城道雄の弟子で、東京音楽学校(東京藝術大学の前身)の邦楽科を卒業していました。そんな関係で結婚したそうです。また両親は二人で、療養所の患者さんたちにお琴と尺八の演奏をしていました。つまり両親は、大の音楽好きだったわけです。
父親は、自分でアンプやスピーカーなどを作っていて、「なぜ作っているの」と聞いたら「レコードをいい音で聴きたいから」と言っていました。さらにその後、テレビも作っていました。
私たち家族は高円寺の家と病院の官舎にも住んでいて、行ったり来たりしていたのですが、官舎の庭には父が鳥小屋やリス小屋を作ってくれて、そこで飼っていました。何でも作るのが好きだったんですね。
音楽好きな父は、高円寺の我が家でレコードコンサートをしており、また母も、医者の子どもたちを集めて病院の官舎で、子どもコンサートを開催していました。私が我が家でコンサートをするのも、この父や母のコンサートが大きく影響しているのだと思います。
私は、幼少の頃から蓄音機でレコードを聴いていましたが、一枚のレコードが三分ほどで終わるので、そのたびにレコードを入れ替えながら遊んでいました。
また、母の勧めで五歳からヴァイオリンを習い始め、ヴァイオリンの先生がヴァイオリンを弾くのにいいと言うので、五年生のときから一年間だけピアノを習いました。ヴァイオリンはあまり自分に合っていないと思っていたので、小学校卒業と同時にやめてしまいました。