第4章 一夫と泰子さんの生い立ち

1 出会いから新婚旅行まで

結婚式翌日から別居生活

福岡のピアノの先生は大変厳しく、泰子さんの突然の結婚も快く思わず「発表会の準備ができなくて弾けないなら出なくていい。やめなさい」とまで言われたそうです。

気持ちが萎えていた泰子さんに、母親は「今まで一生懸命練習してきたことだから、中途半端にやめないで、最後までやりなさい。自分が頑張ってきたものを人様にもお見せして、それをきちんと示しなさい」と励ましたそうです。

母親の言葉を受けて、泰子さんは、演奏会に参加し、『ショパンのバラード四番』を弾きました。彼女のショパンは非常に音が綺麗で、ショパンの魅力がよく伝わるのです。

彼女のピアノの演奏が好きだという方もたくさんいます。私は、当日花束を持って会場にかけつけ、彼女の演奏を聴いていました。とてもよかったです。

そしてこの演奏会が、泰子さんにとって福岡から東京への気持ちの切り替えになったのでした。

甲子園に応援に

六月に入り、泰子さんが福岡から戻ってようやく東京での共同生活が始まりました。私が、当時数学教師として勤務していた城西高校の硬式野球部が地区予選に出場したので、二人で神宮球場に応援に行きました。

何とそれが結婚して最初のデート、いや付き合って初めてのデートでした。すぐ負けるからと言っていたら、何と東東京大会で優勝して、甲子園出場が決まったのです。

甲子園へも行こうと、一回戦、二回戦と学校が仕立てたバスで、応援に行きました。野球観戦は初めての泰子さんも、夢中になって応援していました。

その後は、新婚旅行の出発日となり、もう飛行機のチケットも取ってあったので、後ろ髪引かれる思いで新婚旅行に旅立ちました。

結局、城西高校はこの年の甲子園大会でベスト8まで勝ち上がりました。城西高校はこの頃から、文武両道の良い校風がありました。

体育の先生が世界選手権の女子レスリングに初出場していて、当時の学校には珍しく女子レスリング部がありました。硬式野球部は甲子園ベスト8に、ほかにも重量挙げ部、水球部などとスポーツが盛んな活気に溢れた学校でした。

それと同時に、人間教育を真剣に考える教師も集まっていました。だからと言って生徒は優等生ばかりではなく、問題を起こす生徒もいましたが、熱心な先生方が多かったので、私も彼らと真剣に向き合っていました。

初めて組合を作り、労働環境を改善したり、どういう学校にするかをみんなで話し合ったりしました。教員の家族同士も仲が良くて、皆で蔵王にスキーに行くなどしてよく集まっていました。

時間をかけた改革が必要だったため、毎晩遅くまで目いっぱい仕事をしていました。そうした教師の作る熱い雰囲気が学校の土台となり、生徒たちの活気にも繋がっていました。大変だけど仕事はやりがいがあり、また楽しんでやってもいました。