1 ある事件
「篠原……?」
記憶にはないらしい。それはそうだろう。あずみ本人も相手に見覚えがないのだから。
「一年ねぇ。それなら、同じ学年に櫻井って女子がいるだろ?」
櫻井……?
「あの……もしかして、櫻井……真琴ですか?」
あずみは驚いて尋ねた。
「そう。その櫻井。へぇ、下の名前は真琴っていうんだ……」
先輩女子は真琴のフルネームまでは知らなかったらしい。
「その、櫻井ってさ……」
女性は少し笑った。
「あのサクライホールディングスのお嬢様だろう?」
ああ、それでか、とあずみは思った。真琴の実家は全国的にも有名なアパレルメーカーのサクライホールディングスという。そのことは学内でも有名な話だった。
「はい、そうですけど……」
真琴のことは、わざわざ隠す必要もない。本人があっけらかんと実家のことは隠すこともなく公言しているからだ。
そして、お嬢様大学でもなんでもない普通の医療系大学にどうして真琴は進学してきたのか。それは、入学当時から同級生たちの間でも一時期話題になった。その理由を本人は、
「養護教諭になるため。医療系の大学に来ておきながら、アパレル関係の仕事をするわけないじゃない」
と、分かりやすい理由ではねのけてきたが、つまりは、実家の事業は継ぐつもりもないらしい。立派な後継者である兄がいるではないかと思っているのだ。
「あのさぁ、その櫻井って子をさ……あんた一度紹介してくれない?」
目の前の先輩女子の言葉を理解するのに、あずみは数秒かかった。それくらい、言われている意味が分からなかった。
「紹介……?」
「そ。つまり、一度、お目通り願いたいってことよ」
先輩女子は、またどう受け取っていいか分からない笑みを浮かべた。