第1章 泰子さん認知症に

1 おかしいと思い一人で病院へ

二〇一三年 軽度の認知症と診断

翌年の二〇一一年、泰子さんが「どうも認知症かもしれないので、病院に行こうと思う」と私に相談しました。私は「そんなことはないと思うけど、心配なら行ってきたら。逆に何でもなければ安心でしょ」と話しました。

さっそく泰子さんは、四月十四日にもの忘れ外来に一人で行きました。受付で話をしたら「どの方ですか?」と言われたそうです。若かったので、まさか泰子さんだとは思わなかったのでしょう。

五月九日にMRI検査・心理検査を受け、後日、その結果を聞きに行きました。結果は、認知症ではないとの診断で、私たちは一安心しました。

しかし二〇一三年になると、読み書きに支障をきたすようになりました。漢字が書けない、計算ができない、楽譜もだんだんと読みにくくなってきました。そして、本人の希望により、九月二十三日に再検査を受けることにしました。結果、今度は軽度の認知症と診断されました。

泰子さんはわかっていたとは思うのですが、医師から直接言われたのでショックを受けていました。

2 やはり認知症だった

二〇一三年頃の様子

娘の泉が「私が婚姻届を出す(十一月二十二日)ギリギリまで、お母さんが病気のことを言わないでくれていて、

言うときも『泉ちゃんの晴れ舞台のときに本当にごめんね』と言っていたのを今でも鮮明に覚えているのよ。そして、結婚式の準備から当日まで粗相がないようにと、とても緊張しながら頑張ってくれていたわ。

新しく何かをすることや、昔の記憶が曖昧になっていることは、結婚式の準備の時点で感じられたよ」と話してくれました。

その後十一月三十日に、私の知人が脳神経外科の医師を紹介してくれて、転院することにしました。薬は、認知症治療では定番のアリセプトが処方されました。

当時、ピアノはうまく弾けたと喜んだり、あまり弾けなかったと言って泣いたり、その繰り返しでした。それでも、認知症予防にいいというのでフィットネスクラブには頑張って通っていました。

また、泰子さんは恩師の小川先生のお弟子さんたちで構成されたパピヨンという会の会計をしていたのですが、うまくできないと言うので、私が見てあげました。すると、何がどうなっているかわからないくらいでたらめになっていて、結局領収書と照らし合わせて全部私がやり直すことになりました。