「彼氏がいないまま五年が経ち、私は二十五歳になっていたの。そんな折に、私が所属していた部署に風間俊夫(かざまとしお)という新任の部長が来たの。近くで彼の仕事ぶりを見ていて、情報分析力や決断力、部下への厳しいけど思いやりのある対応、そして上司への毅然とした態度などに惹かれてしまったのよねぇ」

幸は遠い日本、遠い過去を見るように目を細めて空を見上げた。鰯雲が浮かんでいる。のちに雨が来るかも知れない。

上司へのそんな思いは時を経ず恋心に変化し、やがて男女の関係になっていったのは自然の成り行きだった。二十歳年上の彼だが、母子家庭で育った幸だから、会ったこともない父親に対して抱いているイメージに近かったのかも知れない。

彼に妻子がいるのは最初からわかっていた。

母親に打ち明けたら「そんな交際は絶対にやめなさい。お母さんと同じ道をたどるよ」と止められた。

その意味は幸にはわかったが、結局は母親の忠告は聞かなかった。幸の母親は若い頃銀座のクラブのホステスだったそうだが、そこに通っていたお客とねんごろな関係になった。

相手は通産省のキャリア官僚で妻子があった。

「母は相手に迷惑をかけるつもりは全くなかったけど、相手の奥さんが旦那さんの浮気を知って、すったもんだのあげく自殺を図ったらしいのね。自殺は未遂に終わったけど、相手の男はそれきり母と会わなくなり、母はホステスを辞めたの。

でもその時は既に母は身ごもっていたのよ。母は男にも知らせず女の子を産んで、しあわせになることを願って幸(さち)と名づけた。それが私よ、クリスチーヌ」

「えーっ、そうでございますか。フランスの小説のようですね」