一つは、自分で自分の行動を縛ることである。真面目な方ほど、それまでに築き上げてきた地位とそれに付随するややこしいプライドや見栄が、あるいはそれまでの良き大人としての振る舞いの根底にあった杓子定規な考え方が、自由に生きていいんですよと言われた途端に、身を竦(すく)め、脳を拘束する。脳梗塞ではない。
オレがこんなことを始めたらみんな笑うんじゃないだろうか、ワタシあれをやってみたかったけれど、いい年して恥ずかしくてできないワ、という脳ʻ拘束ʼである。
多分、この自縄自縛的な自己制限は、解除するのが結構難しいと思う。自身の心の中で、一歩前に出たい自分と踏みとどまらせる自分との葛藤は、面倒くささも手伝って、踏み出せないまま現状維持の方が勝ちをおさめることが多いのではないだろうか。
二つ目は、最も近くですべてを理解してくれているはずの配偶者のネガティブな反応である。お互いが元気でそれぞれの楽しみを持っている場合は、それほどハードルは高くないが、日常顔を合わす時間が多くなったにもかかわらず話題に乏しく、離婚するのも面倒くさいから一緒にいる場合などは、片方が一念発起して事を始めようとすると片方がブレーキをかける。
何を今さら、いい年をして、お金がもったいない、……。普段会話が少ない分、このちょっとした反応が、やらない理由の決定打になる。
これら二つのことに用心した方がいいですよ、とは言えても、どう乗り越えればいいのか、私は知らない。
好奇心や遊び心は、年をとるに従って薄れていくという人は多い。確かに若いときに比べれば、いろいろな面での経験値は高いから、新鮮な興味を引かれることは減るのかもしれない。
しかし、好奇心や遊び心を持ち続けられなくなるのは、肉体の老化とは関係ない。心の老化である。あるいは、分別があると自負している人の自己規制が、心も老成しなければいけないと、間違った分別を下すためである。
湧き立つような純粋な喜びを感じられるのは、遊びを行うべく生まれてきた人間だけである。朝起きて晴れていたら気持ちが良い、昨日咲いてなかった花が今日咲いたというだけで、少し幸せを感じられるのは、まだ好奇心が衰えていない証拠である。好奇心がなくなれば、その人の人生は色どりを失う。
別にあなたの人生が色どりをなくしても、あなた自身のことで他の人に何の影響もない。しかし、余計なことかもしれないけれども、あなたの残りの人生は思った以上に長いと思った方がいい。
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