その強烈な不快感は、梁葦さんの記憶も呼び起こした。

西純さんも梁葦さんも、ほんとうは貧しい人のことなど、どうでもいいのだ。貧しい人に同情しているようで、じつは見下している。自分の人生を基準にして他人の人生を勝手に憐れむなんて、傲慢ではないか。無礼者め。

それに、わたしはべつに、西純さんや梁葦さんのように生きたいなんて、全然思わない。いや、ほんとに。

二人とも、みんなが平等で豊かに暮らせる社会なんて、全然望んでないと思う。そういう嘘は、ちゃんと伝わるのだ。

たとえば、わたしが彼らと同じ水準の生活をするようになったら、どうだろう。彼らはよろこぶどころか、絶対、ものすごく不愉快がると思う。

そのときの彼らの、いかにも不愉快そうな表情を想像したら急におかしくなって、思わず笑ってしまった。

その笑いで、今日の不愉快な出来事は、どうでもいい塵芥(ちりあくた)になった。

第五章   心の底

年が明けると、日脚(ひあし)がだんだん伸びてきた。もうすぐ春が来るのだと気分は明るくなるが、寒さはいまがいちばん厳しい。雪も積もる。

そんな冬の一日、ついに、という言い方もおかしいが、集井卓中将がやってきた。自動車に乗ってやってきた。

行儀のいい運転手にドアを開けさせ、後部座席からゆっくり降りてきたのは、柿久中尉が言ったとおりの容姿の男だった。

集井中将は海軍の紺の軍服を着ていたが、それがなければ、誰も軍人とは思わないような印象の人だった。

顔全体が間延びしていて、「人の顔を盗み見るような目」には、全然力がなかった。しかも腰を痛めているらしく、動きが鈍かった。

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次回更新は9月21日(土)、11時の予定です。

 

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