一方、十七世紀初頭イギリスはハドソンを派遣して、アジアへの道を探索させた。ハドソンはケベックを大きく迂回し北上したが、大きな湾に入り込んでしまった。この「ハドソン湾」と「ハドソン川」は彼の名前をとって名付けられた。
彼はハドソン湾で、ハドソンベイ会社を作り、インディアンと毛皮の交易を始めた。西部へも進出していき、イギリスはフランスと競争するようになった。
十八世紀に入り、英仏の抗争が激化し、七年戦争(一七五六〜六三年)を経てイギリスが戦勝すると、フランスはカナダ側の大部分を放棄し、イギリスのカナダ植民地が成立した。
イギリス植民地議会は一七七四年にケベック法を制定し、ケベックに住むフランス系住民にフランス語の使用とフランス民法の適用を認め、今日に至っている。同じカナダでもケベックだけは英語が通じにくく、交通標識もフランス語で書かれてある。
今日でもケベック州はストイックにフランス語を守り通し、カナダから独立して一国家になろうとする動きが時々見られるのは、こういう過去の苦難の歴史があるためである。
一七七五年、アメリカの独立戦争が勃発すると、独立に反対したロイヤリスト(王党派)が、イギリス領カナダへ多数移住してきた。一七九一年、初めて「カナダ」という名前が、アメリカと一線を画して、この辺り一帯の正式名として使われた。
一七九三年、スコットランド人の探検家マッケンジーがロッキー山脈を越えて太平洋側への大陸横断に成功し、植民地は次第に西部へも拡大されていった。ロッキー山脈に源を発し、北極海に注ぐ全長四二四一キロメートルの「マッケンジー川」は彼が初めて探検したことに由来している。
一八六七年、イギリス議会が英領北アメリカ法を制定し、イギリスの海外領土で初めての自治領となり、カナダ連邦国家となった。
オタワに首都を置き、自治が認められた七月一日を独立記念日と制定し、「カナダデー」として祭日になった。国中がお祭り騒ぎになるが、外交権はまだ認められていなかった。
一八八〇年、ケベック州の作曲家カリサ・ラヴァレー作曲、ケベック州の判事アドルフ・バジル・ルーチェ卿がフランス語で作詞した『オー・カナダ』が、ケベックの建国記念日の式典で愛国歌として初めて公に歌われた。
一九一四〜一八年、カナダはイギリスの自治領なので第一次世界大戦に参加した。
一九三一年、ウェストミンスター憲章でようやくカナダはイギリスと対等な主権国家となり、独立した。しかし、イギリス国王を君主として仰いでいたため、総督はイギリス人であった。
一九三九〜四五年、英仏がドイツに宣戦布告したことにより、カナダは第二次世界大戦に参加した。
【前回の記事を読む】食事や漁、インディアンの文化に触れることがカナダの歴史を知るきっかけに それは長く、冷たい歴史であった