この辺の様子は『水鏡』には、それとなく「道鏡、帝の御心を、いよいよゆかし奉らんとて、思ひかけぬ物 (山芋で拵(こしら)えた張形(はりがた))を奉れたりしに、あさましき事出(い)で来て(抜けなくなり)、平城(なら)の都へ渡(わた)らせおはしまして、さまざまの御薬どもありしかども、其の験(しるし)(効果)更に見えざりしに、或(ある)尼一人出で来りて、いみじき事どもを申して、やすやすおこたり給ひなん(私なら簡単に解決できます)、と申ししを、百川怒りて遂に出だしてき(拒否した)。帝(称徳)遂にこの事にて八月四日失せさせ給いきに(崩御された)」と記述しています。(余禄4)
そんな皇后が疎ましくて、高野新笠の子の山部親王を次の後継者として百川は考えているらしい、と皇后も感じていたのです。
この時代の皇位継承の序列は何より母親の血統が重視され、大宝律令には序列として「皇后(こうごう)・妃(きさき)・夫人(ぶにん)・嬪(ひん)」とあり、井上内親王の子である他戸親王と、高野新笠夫人の子の山部王では身分に大きな隔たりがあって、百川もその対策には頭を悩ませていたのです。
(余禄4 『水鏡』や『日本略記』に書かれている、称徳女帝と道鏡の関係の中で「称徳帝は道鏡の陰をなお不足(もの足りない)に思ったので、道鏡は山の芋をもって異形なるもの(張形)をこしらえて献上しました。ところが、これが折れこんで出てこなくなって、ソコが腫れてふさがってしまいました。ゆゆしき事態となったので、百済人の薬師(くすし)の娘の小手尼(こてあま)(手の小さい尼であろう、今でも産婦人科医は手が小さいのが適しているとされる)というものが「私の手に油を塗って処置すれば容易に取り出すことができます」と言ったところ、右中弁百川という武士(もののふ)が聞きつけて来て、「これは妖しい狐の化身であろう」と叫んで、小手尼を切り殺してしまいました。そのために帝は癒えず、ついに崩御された」とあり、女帝は百川に見殺しにされたとして、井上内親王は彼に遺恨をいだかれたといいます。後の京都北山観勝寺の僧行誉の『壒褱(あいのう)抄』(1446)には、「称徳女帝が『涅槃経(ねはんきょう)』に偽りがあるといって小便をしかけたところ、仏罰が当たって女陰が広大になり、“色情狂”になって、これと道鏡の巨根とがつり合った」とあります。
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