第一章 強腕・藤原百川の策略

古代より都を遷(うつ)す遷都は、天皇が崩御された際に後継者がその死の穢(けが)れを避けるためと伝わりますが、明日香(あすか)の岡本宮から「近江大津宮」(667)への場合は、天智天皇の白村江(はくすきのえ)の戦いの敗北で都を更に奥地へ移したとの説もあります。

ちなみに、明治初期まで千余年続いた都、平安京は明治二年(1869)東京が首都に定められ行政の中心地となり、皇居も東京に移されましたが東京遷都とは呼びません。

これは天皇による「遷都の詔(みことのり)」が発令されていないためで、「天子様は一時的に東京にお住まいですが、ご本宅は京都御所、日本の首都は今でも京都に変わりはありません」と発言する京都人の言葉にも一理あり、歴史的・形式的にはあくまでも京都が首都なのです。

閑話休題、奈良の都は寺院の勢力が高まり、道鏡のような僧侶も現れ、また早良王の僧侶としての存在もあって、為政者は政治に何かとやりにくさを感じていました。

そもそも、奈良仏教は六世紀の半ば、欽明天皇(きんめいてんのう)(二十九代)の時代に百済(くだら)の聖明王(せいめいおう)が仏像・経典と共にもたらしたもので、その根本は国家の鎮護(ちんご)であり、そこに属する僧は国家官吏として国と人の心を支配し、寺の運営に関わる諸経費すらも国家が負担していたのでした。

その狭い奈良の平城京には、東大寺や興福寺をはじめ、薬師寺、大安寺、元興寺、葛城寺、紀寺、法華寺、唐招提寺、西大寺、西隆寺などの大きな寺と僧侶たちが権勢をふるい、派閥抗争を繰り返し政治への口出しも激しいものでした。

(もう、寺と僧はうんざりだ)