第一章 強腕・藤原百川の策略
『日本後紀』などの史書には「皇太子(安殿親王)枕席安んぜず、久しく平復せず。この日伊勢神宮に向ふ。宿禱(しゅくとう)によりてなり」とあって、安殿皇太子が早良の強迫観念で神経が衰弱、不眠症になって、参詣して祈願するために伊勢に行ったと書いてあります。
また「皇太子久しく病む。これを卜(ぼく)するに崇道天皇(早良)祟(たた)りをなす。諸陵頭(しょりょうのかみ)・調使(ちょうし)・王等を淡路島に遣わして、その霊に謝し奉る」と早良廃太子の怨霊を鎮魂したとも述べています。
安殿は、誰からみても、ひ弱な性格で生まれた時から腺病質、すぐ熱を出して食欲もなく不眠症の状態が毎日続きました。
この間も長岡京の造営は継続されましたが、何故か途中九年目の延暦十三年(794)に、今度は葛野郡(平安京)へ還ることになります。造営途中の長岡京を捨て、北西僅か数キロの宇多村の地へ十年足らずで移さねばならなかった理由とは……。
父の光仁帝の想いを受け、幼い時から生活の場とした奈良の都、そして自分を僧侶として育て上げてくれた寺院、それらを全て奪い去り、最後は自分を憤死に追いやった者たちへの早良の怨み。
(いかん、ここには早良の厭忌(えんき)が取り憑いている)
最初は、寺社勢力から逃れるためにした長岡遷都でしたが、もうそれどころではありません。
桓武はよほど、早良の怨霊が身に染(し)みたらしいのです。