第一章 強腕・藤原百川の策略
しかし道鏡のような皇室外の男性との交わりができれば、女帝そのものが天皇家の血統を絶ちかねない存在となり、その結果男子が生まれれば、宮廷は女帝一族に支配され歴代天皇の近親者は排除されかねません。
これを危惧(きぐ)された天皇家は、称徳の死から850年後の寛永六年(1629)、第百九代明正(めいしょう)天皇(徳川秀忠の孫娘)に至るまで、しばらく女帝を封印してきた歴史があります。
称徳女帝と道鏡の退場で、暗雲が晴れたかの如く急速に勢いをつけたのは、藤原式家の良継(よしつぐ)と百川(ももかわ)兄弟でした。
この二人は「藤原一族」の一つ「式家」系統であり、藤原氏の先祖は、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(天智天皇)と協力して、乙巳(いっし)の変で飛鳥時代の645年、蘇我入鹿(そがのいるか)を亡ぼした中臣鎌足(なかとみのかまたり)です。
それからは鎌足の次男の藤原不比等(ふじわらふひと)の四人の子息が天皇の外戚を巡って争います。百川は式家宇合(うまかい)の四男で不比等の孫にあたります。
不比等の息子たち四兄弟(余禄2)が天平九年(737)、遣唐使により持ち込まれた天然痘で一度に死去した後は、橘諸兄(たちばなのもろえ)が十八年間政権の首座(しゅざ)を占め、藤原氏はしばらく雌伏(しふく)の時代が続きました。
百川(ももかわ)は称徳女帝の代替わりをチャンスにして何とか藤原氏の権勢回復を望んだのでしょう。ここから百川の豪腕ぶりが発揮されます。