『水鏡(みずかがみ)』(余禄3)によると、皇嗣(こうし)問題の会議で、右大臣吉備真備(きびのまきび)は、天武の孫の文屋浄三(ふんやのきよみ)を推したけれど、「儂(わし)のような老いぼれ(七十八歳)の出る幕ではない」と断り、事実その二カ月後には病死。

そこで、真備は再び浄三の弟の大市(おおいち)を推薦し、これには賛成も多かったものの結局彼も六十七歳の高齢で気が進みません。

この時とばかり天智の孫の白壁王を推したのが百川でした。しかしこの白壁も、この時すでに六十二歳で、百川の存在と白壁が天智系ということもあって、一旦は辞退した大市が出場を承諾したこともあり吉備真備は悦(よろこ)んで大市立太子の宣命(せんみょう)(宣命体で書かれた天皇の命令)を作りました。

ところが、いよいよ立太子の式の場となったところで、宣命使を抱き込んだ百川は、予め用意しておいた、白壁を太子に立てる旨の宣命とすり替えたのです。真備らは驚き腹を立てましたが、どうすることもできませんでした。

この宣命は亡き称徳の名で出されているため真備らは如何ともしがたく、百川らも周囲には兵ぐらい配置していたのでしょう。

そして白壁が即位すると、真備は、「長生の弊、還(かえ)ってこの恥に遇(あ)う(いのち長ければ恥多しとはこのこと)」と言ってすぐに辞任したといいます。

これら一連の出来事は、政権の正史『続日本紀』には記載が削除されており、とにかく国家・朝廷にとっては表には出したくない事件であったに違いありません。

こうして白壁王は称徳女帝の後継として、宝亀元年(770)六十二歳の高齢ながら、天智系の光仁天皇(こうにんてんのう)(四十九代)として即位されます。

光仁帝の即位により、后位に就かれた井上内親王は五十四歳、皇太子となられた他戸親王は十歳、夫人(ぶにん)となった高野新笠が産んだ山部親王は三十三歳、その弟の早良親王は二十歳になっていました。

余談ですが、今の上皇さま(平成天皇)が2010年に「平安遷都1300年記念式典」で、韓国・中国など四十七カ国の大使ら約1700人を前に「桓武天皇の母君(高野新笠)は朝鮮半島から来た人の子孫だという深い古(いにしえ)を感じます」とのお言葉はこの歴史によるものです。

井上内親王は結婚当初から性格も強欲で、自分は聖武天皇の娘で称徳女帝とは姉妹であるという気位の高さから、何かにつけて天智系の夫、光仁帝を毛嫌いされていて、我が子の他戸皇太子を早く次の天皇の地位に就けたいとお考えになっていました。

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