Ⅰ レッドの章

米軍基地

戦争後の貧しさは日本人おしなべて耐えなければならない苦難ではあったが、僕はのどかな田舎暮らしにすぐに順応した。

敗戦から四、五年も経つと人々は戦争なんてどこにあったのかという風になった。人が物事を忘れる速さはB29も顔負けだ。

僕らはようやくそれぞれの生活のささやかな楽しみを味わうことが出来るようになった。

国は敗れても山河は残っており、春には桜も咲き、野鳥も飛んできた。母と妹はすぐ近くの川の土手でつくし摘みをした。

町を出て少し奥に行くと一面の田んぼと段々畑が広がり、百姓が馬に鋤(すき)を引かせている光景に出くわす。そこには日本の素朴な田舎の原風景があった。

この町は若狭海岸の海水浴場に近く、父の同僚の実家が高浜の海岸沿いにあって夏休みにはよく招待してもらったものだ。

その先生はサイダーを冷やして子供たちを待っていてくれた。夏休みには帰省していた兄貴も一緒に高浜に行った。

田舎ならではの海の幸、山の幸にも恵まれた。

日本海特産の若狭カレイや松葉ガニ、また父の患者さんの持つマツタケ山に招待されてマツタケ狩りをしたこと、これらの自然の恵みは今思えば大変な贅沢だった。