述べた通り、最初の作池は崇神朝の依網池であり、最後の作池は仁徳朝の依網池で、最初と最後の池が重複している。この重複は、Ⅰの他例の数合わせと同調していることを考えれば意図的な重複であった疑いが濃厚である。

各引用原文を仔細に見ると、作池記事は基本的に、一つ一つの池について、いちいち「作○○池」と「作」字を冠して記述されていることがわかる。然るに、最後の2池のみ、「又作丸迩池・依網池」とある。

つまり最後の依網池のみ、例外的に「作」が省かれていて、この最後の依網池のみ、意図的に例外扱いとされていることが明白である。

参考までに推古朝までの書紀における朝廷による作池・造池記事を見ると崇神朝に3池、垂仁朝に4池、景行朝に1池、応神朝に5池、仁徳朝に1池、履中朝に1池、推古朝に9池、計24池の作池・造池記事を数えることができる。

そのうち、依網池は崇神朝と推古朝とで重複し、ほかにも和珥池が仁徳朝と推古朝で重複している。しかし書紀の場合、意図的な数合わせのような人為を窺うことはできない注2

書紀を見れば、作池・造池の伝承は古事記が掲げる以外にも多く存在したであろうことが知られる。古事記はそうした伝承から取捨選択してこれを10池に揃えた上で、意図的に最初と最後を重複させたのであろうと推断できる。

各天皇朝の作池数は、崇神朝2池、垂仁朝3池、景行朝1池、応神朝2池、仁徳朝2池である。疑問符のつく最後の依網池を除き、垂仁朝の3池を最後に回すと、Ⅳ―1に述べた通り、2・1・2・1・3池というグループ分けになっていることがわかる(垂仁朝を最後に回すのは理由がある。

詳細は略すが、垂仁天皇に天智天皇=中大兄皇子〔なかノおほえノみこ〕の長子、伊賀皇子こと大友皇子が寓意されており、崇神天皇と景行天皇には天智天皇が、応神天皇と仁徳天皇には天武天皇が寓意されていて、古事記は大友皇子を貶し排除しようとする意図に満ちている。

下に述べる通り、「10引く1は9」の「引く1」も、実は大友皇子を排除する寓意である――大友皇子、天智天皇、天武天皇の系譜に関しては第2節冒頭の系図参照。

周知の通り、天智天皇の崩御の翌年に起こった壬申乱は天智天皇の弟、大海人皇子〔おほあまノみこ〕=天武天皇が、淡海朝首班大友皇子を倒して皇位に就いた戦乱である)。