「悪かった、左内。道場仲間の家で話がはずみ、すっかり遅くなった」
息を吸うように自然に嘘をつく源次郎の横で清三郎は頷くだけにとどめた。こういう時は口八丁で人を丸め込むのが得意な源次郎に任せた方が良い。清三郎が下手に口を出すと嘘だとバレてしまうからだ。
「父上、若様が源次郎様と清三郎様をお呼びです。そのくらいになさいませ」
延々と続くお説教に待ったをかけたのは左内の息子、佐太郎だ。長兄、新之丞と同い年の十九だが、父、左内より切れ者である。
「若様がお呼びならば、致し方あるまい」
そういってすんなり、左内は引き下がった。屋敷の狭い廊下が長く感じる。この廊下の先は堅物な長兄の部屋へと繋がっていた。父、陣左衛門は頭に血が上りやすいが、冷めるのも早い。
しばし、怒鳴られるのを我慢すれば良いが、長兄、新之丞は一筋縄でいく男ではない。滅多に怒らないが、道場通いをしばらく禁止されるか、食事の品数を減らされるか、何かしら罰を与える事が多い。どうやら新之丞の逆鱗に触れたらしいと清三郎は源次郎と共に冷汗をかいた。
「全くお前達と来たら、大事なお爺様の法事を抜け出しよって」
静かに、しかし確実に怒りを含んだ声で新之丞に叱られるとまるで蛇に睨まれた蛙のようになってしまう。父、陣左衛門によく似た如何にも武士らしく勇ましい顔立ちだ。
十九とは思えぬ威厳を放つ新之丞には、昔から全く頭が上がらない。源次郎も得意の言い訳が全く出てこないようで、清三郎の隣で固まっている。
「どうせ、正助に誘われて、桝井屋に行っておったのであろう。流石に桝井屋の名入りの提灯を提げて帰って来るほど愚かではないようだが、詰めが甘い。あんな上等で新品の提灯をお前達に貸すほど懐が豊かな知り合いは、桝井屋以外におらぬではないか。父上に見つかったら、またお叱りを受けるぞ」
早々に、桝井屋に行っていた事がバレた源次郎と清三郎は観念するしかなく、黙って頭を下げた。提灯の事は、二人が左内に説教されている間に佐太郎が報告したのであろう。
新之丞は深いため息つき、しばらく黙ってしまった。長い静寂の後、新之丞は廊下に控えていた佐太郎に声をかける。
「提灯を父上達の目に着かぬところに隠しておけ、それと、源次郎達の硯箱を持ってまいれ、二人には法事の帳簿付けを手伝わせることにする」
【前回の記事を読む】源次郎のために見事な着物を着たお幸だったが、源次郎は別の女性に夢中でそちらの着物を先に褒めてしまう...
次回更新は8月25日(日)、11時の予定です。