当時、いろいろなメニューを開発するにあたり、家族や知人に味見をしてもらっていたらしいのだが、自信満々で作った「生姜焼き」の感想を求めた際、「しょっぱい」の大合唱が起きたにも関わらず、「そんなハズはない!」と微塵も引かなかったそうだ。

そう、オヤジは頑固者なのだ。自信を持っていたからこそ、引くに引けなかった、それが「しょっぱい」真相だったのだ。味見をしてもらうのも、最初のころは自信なさげに「どう?」と感想を聞き、改善の余地があれば真摯に手直しを加え改良していたそうだ。

名物のチャーハンもそんな真摯な時期に出来たものだったという。生姜焼きが「しょっぱい」のは、そんな高慢な「時期」に作られたことが原因だったとは・・・。

あるとき、オヤジから課題を出された。意外だった。それは「しょっぱい」生姜焼きの改良だった。実際のところ、オヤジも長年これに関しては後ろめたさがあったのだろう。しかし頑固さが邪魔して、表立って改良することが出来なかったのではないだろうか。

そこに現れたのが調理見習いの息子だ。自分では出来ない「改良」をさせるにはあまりに都合が良すぎる存在だ。オヤジはオレにこの課題を伝えたあと、胸を撫で下ろしたに違いない。親が出来なかったことを子に託す、まるでアスリートの世界でよく有りそうな美談になぞらえて、悦に入っていたかもしれない。

正直ズルいなと思った。が、同時に、オヤジのワザを盗み、または教えを乞い、覚えたことを反芻し、体に馴染ませる、という一連の作業の繰り返しだけでなく、こういう課題があった方が正直なところ遣り甲斐がある、とも思った。

それから試行錯誤の日々が続いた。悩んでいる息子に、時折母親は訳知り顔で近づいて労いの言葉を掛けてくる。でもそれは気にしないようにした。これはあくまで自分自身が成長するための大事な大事な最初のステップと思い、ひとり孤独に取り組み、真剣に悩むことにしたのだ。

多くのメニューの中でいくつか仕込みをするものがある。「生姜焼き」もその一つだ。豚ロース肉に味を染み込ませるために、数時間タレに浸けておく。調理する前に取り出し、玉ねぎと一緒に炒め、最終的に調味料で整える。

とてもシンプルな工程だ。シンプルなだけに、「しょっぱい」を「しょっぱくない」に変えること自体は簡単なことではある。

ただ、厄介なのはその加減だ。生姜や醤油の具合、どの程度加減を変えれば良いのか。うちの元「しょっぱい」生姜焼きの改良版として、常連さんなどから太鼓判をもらうためには、一体どのような調整が必要なのか、それが問題だった。

常連さんたちの「あそこの店のあのメニューの味が変わったから行かなくなった」などという話は散々聞いてきた。皆、顔に似合わず、デリケートで敏感な舌を持っていることに心から驚かされる。

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次回更新は8月122日(木)、11時の予定です。

 

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