●第1章-30-

「あと5年でおれは引退する」

この街の人たちの胃袋をがっちり掴み続け35年。自らが創業した中華定食料理店での自分の人生の幕を下ろすことを決意したオヤジの頭には、35年の思い出がフラッシュバックしているように感じた。

今まで見たこともない、なんとも物悲しい表情の中にうっすらと幸せを噛み締めるような温かい笑みを垣間見ることができた。

叔父の葬儀を終え、母親と弟と、そして亡くなった叔父の子供たちと、オヤジの店に戻ってきていた。黒づくめの集団は、暖簾を出していない定食屋の中でひっそりと思い出話に花を咲かせていた。

亡くなった叔父も料理人だった。ただし、イタリアンだが。身内の人間が集まって酒が入ると、叔父の作る「ピラフ」か、オヤジの作る「チャーハン」どっちが好きか、というなんとも平和な議論が勃発することがよくあった。外野が好き勝手言うものだから、当人たちは一応自慢合戦といった様相で、むきになったりもしていたが、実のところお互いを尊敬していることは誰の目からも明らかだった。

この日も、またそんな話になったが、対戦相手がいなくなってはなんだか盛り上がりに欠けてしまう。無理もない。オヤジは何回もため息をついていた。周りの声が遠くなっているような雰囲気で佇んでいた。しばらくして発した言葉が「引退宣言」だったのだ。

ぼそっと言ったので、最初はノイズにかき消されていたが、隣にいた母親がその声を拾い、聞き直した。今度ははっきりと言った。

「あと5年でおれは引退する」

頬を赤らめていたから酔った勢いかと一瞬思えたが、顔にはしっかりと決意がにじんでいた。尊敬できるライバルであり続けてきた叔父の死がそうさせたのも理由の一つだが、直接の理由ではない。

5年後に70歳を迎えるという切実な高齢者問題が暗い影を落としていたことは間違いない。しかし、オヤジは悩んでいた。後継者をどうするか、だ。オヤジは30歳で脱サラして店を起こした。

オレは今年、その30歳だ。自分ではそんなこと微塵も意識してはいなかったが、オヤジはかなり意識していたようだった。しかし、広告代理店で働いているオレに「店を継げ」という圧力をかけることなど今まで一回もなかった。

「気を使っているな」と感じたのは1年前にオヤジが腱鞘炎になり、10日間の休業を余儀なくされた時だった。その時はまだ元気だった叔父と料理人談議を二人でしていた時だ。

叔父は、長年自分の店で働いていた信頼できるスタッフに店を譲ると決めたようだった。叔父は子供が二人いたが、両方とも女子だったため、子どもに継がせるという訳には行かなかったのだ。