本庄の家は久衛門という屋号をもち、駅を挟んだ町の丘側にあった。江戸時代初期に幕府の許可を得た大商人らにより、この地方の内陸部にあった大きな湖が干拓され、後にその周辺の低湿地も新田として開拓された農村部落である。

明治以降に、いくつかの村落が合併してできた町の中心は、駅の海側であった。大通り商店街には町民だけでなく、近在の人々も買物にやって来る、小さな商業圏ができていた。戦時中、県の東部に位置するこの地域には、首都防衛の航空隊基地や高射砲陣地が設置され、また敵機が帰艦するルートにもなっていた。

そのため、町の周辺部では空襲で命を奪われた犠牲者がでたのだが、中心部は戦災に遭わずにすみ、戦後も、人々が生活する上で必要なものが従来のまま残されていた。千津が小学校時代の、同級生の名簿欄に書かれた親の職業を見ても、農業以外に材木屋、瀬戸物屋、下駄屋、豆腐屋、仕立屋、畳屋と、多岐にわたっていた。酒、醬油、酢、味噌といった昔から続く醸造業は、町の有力者である旧家の本家や分家が担っていた。

大通り商店街から少し離れた場所に、長福寺がある。春秋には近在の寺を巡るお遍路が立ち寄る、つくも地方の中核的な真言宗の寺で、「観音さま」や「四万八千日」の祭りでは、檀家を中心に、遠方からも大勢の人たちが集まり賑わっていた。

祭りになると境内には露店が並び、仮設の舞台が作られ、見世物小屋やサーカスがやってきた。普段、寺の境内を遊び場とする近所の子供たちにとっても、心浮き立つ日々となった。

寺の観音堂には四国や高野山、出羽三山等を巡拝した信徒たちの集合写真が、回廊に何枚も掲げられてあった。回廊は吹き抜けで、すっかりセピア色に変色しているが整列した人々が並ぶ写真の中に、まだ若さが残る緊張した面持ちの千津の父と母がいた。二人が結婚した戦前から、戦後に至る怒濤の時期を経て、生活がやっと安定し、旅行に出かけるゆとりが出てきた頃のものである。

 

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