海鳴りの聞こえる町
家の入り口の杉の丸太の門柱をくぐり、この地方に多いマキの生垣に沿って行くと、母屋の入り口に突き当たる。
農作業場となる、空き地を挟んだ反対側に、精米や脱穀をする工場があった。 母屋と工場との間には、納屋や隠居部屋が配置され、工場の裏手には牛や豚、鶏などの家畜小屋があった。
家族構成は祖父の忠助を筆頭に、父の剛三、母のつね、長女のシゲ、次女のヤス、長男徳一、次男英二、三男洋平、三女のスミ、つねの連れ子であるなみ、四男信吾、そして末っ子の千津という大家族である。
もっとも末子の千津が生まれた時には、長姉のシゲは既に他県に嫁いで子供を産んでいたので、千津は0歳にして早くも叔母さんだったことになる。 もともと忠助自身も入り婿、その一人娘と結婚したのが剛三で、六人の子供が生まれた。
その母親が病死した後、なみを連れて後妻に入ったのがつねであり、再婚後に信吾と千津の二人を産んだ。
血縁のある者、ない者が一緒に、大家族で暮らす家には、様々な思惑や轢軋(あつれき)が生じる要因が含まれていたのである。
剛三とつねが結婚したのは、日中戦争の始まる前年、昭和十一年の初冬だった。
この年は剛三の末弟、武が召集されて駅から出征していくなど、戦の足音は、田舎町でも感じられるようになっていた。
つねは十九歳の時、奉公先の紹介で八百屋を営んでいた男に嫁いだが、娘のなみが生まれて間もない時期に夫は病死してしまい、実家に戻らざるをえなくなった。
実家は、知人に保証人を頼まれて財産を無くした貧しい農家で、病身の親と弟妹のいる家に、子連れで居続けることは無理だとわかっていた。
しばらく実家に身をおいていた時に、親戚筋がつねに、隣町で伴侶と死別していた剛三との縁談話を持ってきた。
舅と、子供が三人いるという話だったが、十五歳になる長女は既に遠縁の若者との縁談話がまとまっており、二、三年後には家を出るという。
学齢前の長男のほか、末娘が自分の娘、なみと同い年というのは、遊び相手になっていいかな、と少し期待した。
柳李行(こうり)を担いだ口利きの男がなみの手を引き、つねは着替えなどを詰めた風呂敷包みを抱えて、町へと続く街道を歩いた。