2-5:英会話スクールの校長に赴任
新卒で入った会社で営業をがつんがつん行ってわき目もふらずに駆け抜けていた日々。でも、ある時から徐々につまらなさを感じるようになってきた。
理想とする先輩、目指したい、目標とする上司や同僚が一切いなかった。もっともっと高みを目指したいな。自分の限界にチャレンジしたいな。ここにいたらいつでも一番で、気持ちよく心地よく走っていけるだろう。
でもさらなる高みを目指して自分が成長していくためにはもうここでは悔いのないほど思いっきりやったのだから、これはもう次なるステージに進む時がきたのかなと考え始めるようになった。そんな矢先、ある話が舞い込んだ。教育事業を自分の手で築き上げていくことに興味がないかとお声がかかった。
実は大学生の頃からずっと塾講師をしたりしてきて、教えることが大好き、人のモチベーションをガツンとあげるというところは営業と何ら変わらず最高のお仕事だと思ってきた。これにかけてみるか。少し迷った末、思い切ってそのオファーを受けることにした。
これがまた壮絶な試練の始まりだった。横浜は綱島の小さなつぶれそうな英会話スクール。この立て直しを任されたのだ。
英語が全くできないのに、英会話スクールの校長としての任務がはじまった。わたし以外はネイティブの講師数名。全員日本語はほとんどできない状態。これではコミュニケーションもままならない。
ネイティブの講師たちは、英語の話せない校長に対して、いったいこの先どうしたらいいのだろうと不安そうな顔をしていた。しばらく途方に暮れていた。
そして親御さんたちが突如現れたこの若い新校長に興味津々で、わたしの頭のてっぺんからつま先までじろじろ見られているような、そして一つひとつの言動も常にジャッジされているような気がして、心がそわそわ、泣きたい気持ちだった。でも、その親御さんたちとのやり取りがあったおかげで、発想の転換ができるようになった気がする。
そうか。英会話スクールと言えど、ここは日本だ。つまり顧客はみな日本人。今までずっとやってきた営業という武器を使えば、集客は日本語ですればいいのだからできないはずはないじゃないか、とそう思えたのだった。
そしてそう思えた後のわたしは強かった。彼らのニーズにこたえるべくあれこれとアイディアが次々に出てきたのだった。よし、連絡帳を作ってレッスンごとにステッカーを子どもたちに一枚選ばせて貼っていけるようにしたらどうだろうか。何か月かに一度野外イベント、フィールドトリップを企画したらどうだろうか、などなど。
でもそこで、はっとした。その前に、まずは、ネイティブの講師たちときちんと連携することが最優先課題だ。つたない英語を使いながらも必死で彼らに現状を聞いて回った。幾度にもわたりミーティングを行った。
するといろんなことが見えてきた。ネイティブの講師たちは以前の日本人経営者の言いなりで、パペットのように動いていただけ。教科書を指定され、こう教えろと言われてその通りにやってきた。
でも本音は、こんなんじゃ本当に生きた使える英語は学べないんだ、自分たちが小さい頃学んだ方法を実践したいんだ、と。なのでその方法がどんなものかを聞く。
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