私は一九九八年八月十一日から二〇〇〇年八月三十日まで朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の軽水炉型原子力発電所建設現場で「朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)」の職員として働いていたことがある。

この本は、そこ(咸鏡南道琴湖ハムギョンナムドクムホ地区)に駐在していた二年間に体験したことを時系列で日記風にまとめたものである。

なお、私が運良く現地の日本代表に採用されたのは、当時外務省韓国語専門職の中に私の他には誰も志願者がいなかったためである。

また、それまでの二十四年間の外交官経歴(うち半分が韓国勤務)や実用英語検定二級の語学力と政治学修士という学歴が選考条件にも合致していたと思われる。

当初妻は無事に(生きて)帰れないかもしれないと心配し志願を辞退するように訴えたが、私のゆるぎない決意を知るとそのうち諦めた。

また、「仕事をしない人は受け入れない」という北朝鮮政府の方針により家族同伴は認められなかった。

そこで、妻はこれを好機と捉え、中学二年生の娘とニュージーランドで暮らすことを選んだ。よって、住宅ローンで購入した日本の自宅は賃貸に出し、私が北の僻地で勤務する間、家族は海外で過ごすことになった。

当時(一九九〇年代初頭)は、北朝鮮による核兵器開発が発覚し、これをめぐって国際原子力機関と米国が北朝鮮と対立状態にあった。

様々な交渉が行われる中で、核開発阻止と電力不足解消という米国と北朝鮮双方の利益が一致し、一九九四年十月に「米朝枠組み合意」が成立した。