大王の密使

都の皇子(みこ)から使いの者が来るなど、予想もしない。行き先も告げずに、人知れず都を去ったつもりだった。まだ自分のことが、都で忘れられていない。いや、ずっと目をつけられていたのかもしれない。大王(おおきみ)や皇子の力が恐ろしくもあった。

老師は使者と騎馬で並びながら、そう思いを巡らしていた。

「老剣(ろうけん)殿。あの高名な武術師範をお迎えに上がれるとは。光栄です」使者が、そう老師に声をかけた。

老剣。久しぶりにその名を聞いた。老師は苦笑する。ただの蝶英の武術の師の老師。それが今の自分だった。この使者の若い男は、私が都にいた頃のことは、知らないはずだ。そんな歳ではない。

ただ、名前、それも悪(あ)しき名だけが残っているのだろう。あるいは、この使者となるに当たって、予め、そう呼ぶよう教えられてきたのかもしれない。私が都にいたのは、十年も前のことだ。まして剣を振るっていたのは更に昔だ。

軍を退いて、老いて老剣と呼ばれた。そして、とうの昔に都を出た今は、蝶英が先生と呼び、それを見た者が老師と呼ぶぐらいだ。誰も名を知らぬ老人だった。

老剣か。老師は頸を振った。

「老剣殿。斑鳩(いかるが)の宮には」

使者が尋ねた。少し間があって

「いや。初めてだ」そう答えた。

皇子が自らの宮殿を斑鳩に建てられた、とは聞いていた。大王が遷宮(せんぐう)された小墾田宮(おはりだのみや)からは離れた場所という。

「そうですか。美しい宮ですよ。ご覧になれば、きっと驚かれます」

いかに昔の名があるとはいえ、こんな山里に住んでいる男が、この度のお役目に適うのかどうか。

使者は、馬の背に乗る白髪を束ねた老人を見ながら、そう思った。

初めて見る斑鳩の宮。宮殿を囲む長い塀を入って、正面の正殿に向かう。宮殿内を行き交う者たちは、皆、袍(ほう)に袴(はかま)の正装である。

老剣も、宮殿に入る前に、粗末な野良着を同じような服装に着替えさせられていた。袍など着るのも、十年振りか、老剣も苦笑する。使者に従って宮殿の階段を昇る。案内の舎人(とねり)と共に、背の高い痩せた男が待っている。褐色の袈裟を着た僧侶である。

「おお、法広(ほうこう)殿」

使者がそう呼びかけると、僧は頭を下げた。

「ここからは私が」

僧は老剣にも頭を下げる。