また、あるときは成城の東京美音大教授の自宅に伺った。オーディオセットのメカニックな調整を専門のエンジニアがしている間に、教授から大神会長の芸術家としてのエピソードを聞くことがあった。

大きなスクリーンに大映しの指揮者の姿があった。

「ここのところのタクトの振り方がどうもなぁ」

と、難しい顔つきをする。

「もう一度再生する。やはりここだ」

今度は物言いたげな顔を渉太郎に向ける。

「申し訳ありません。私には分かりかねますが」

渉太郎は教授に答えた。

「まぁいいとするか。ところで、大神はあれで社会のことを真剣に考えている」

先輩にあたる教授は語った。

大神会長の音楽を通した社会貢献への並々ならぬ情熱を聞くことができたのも、この仕事だからである。

話を聞いている間ずーっと、ベルリン・フィルのブラームスの交響曲第三番がかかっていた。「会長と対峙したあの日」を思い出して、ドキリとした。

大神会長が率いる企業は、映像と音楽、そしてゲーム機や映画などのエンターテイメント分野から、保険や銀行などといった金融分野にまで業容を広げていた。

渉太郎は世界に冠たるコングロマリット企業の中枢で仕事をすることで、国際競争に打ち勝つための業界の新たな仕組みづくりや業界再編に関心を持ち始めていた。

創業社長(ファウンダー)はかつて日本企業連合会の会長に指名されることが決まっていた。それにもかかわらず、不運にも突然の病に冒されたことから、財界総理の座を射止めることができなかった。

そのこともあって、大神会長は財界活動にはとりわけ熱心に取り組んでいた。渉太郎も大手町の日企連会館に日参する日が続いた。そして、日企連の役員企業の会長や社長と直接話すこともたびたびあった。

 

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