第五章 政治家を志す
日曜日のテレビ番組で、政権与党の森永総裁を支える中野幹事長と加田議員の一問一答の様子が生放送された。
「森永総裁の至らない点は、お支えしている自分たちの責任でもある。同じ政権与党内で議論を尽くして、国民の負託に応える必要がある。そのためにはなんでもしよう」
中野幹事長は加田議員に訴えた。
「総理・総裁と今後のことを話す機会をつくる必要がある」
加田議員は頑なな姿勢を崩さずにいた。
「一両日中に話し合いの場を設定したい」と、中野幹事長が力説した。
この模様は全国に生放送されたこともあり、月曜日の各紙朝刊には、「政権交代必至か」などの派手な大見出しが躍った。
中野幹事長の手腕が忽然と始動しだした。それから日を置かずに、森永総理・総裁と加田・咲山議員との会談があった。
以降、与党内の現政権への批判はそれ以上に増幅することはなくなった。その背景として、野党の不信任案に与党議員の一部が同調することへの反発が根強くあったからである。
しかも、加田は保守本流を標榜する派閥の領袖であったことも、党内に波紋を呼ぶことになった。
野党が不信任案を上程するその日、加田議員は、首相の不信任案賛成のために、派閥のメンバーを引き連れての国会出席を断念し、自身の信念を貫くために、一人で不信任案賛成の意思表示をする構えでいた。
その行動を派閥の幹部から引き止められ、涙ながらに悔しさを滲ませていた姿が、テレビ画面に大映しで報道された。
「加田先生は大将なんだから、一人で飛び込んでいくことはなりません」
派閥幹部である板垣議員の必死の説得が、その場の空気を圧倒した。
後に、「加田の乱」と云われた倒閣運動はこの日をもって終わりを告げた。加田議員はその後、秘書の公職選挙法違反により、責任を取って辞職した。
再びバッジをつけて永田町に復帰するも、かつての勢いを取り戻すことはなく、後年一政治家として静かにこの世を去った。
当時、渉太郎は企業人として勤めをしながら、桐陽学園の大川昇一が主宰する神奈川フォーラムに参加していた。
大川は私立学校法人の理事長、学長、校長の学園の重職をすべて兼務し、学問、スポーツと芸術に力を入れた学園経営を見事に実践していた。