東大合格者においては県下有数の進学率を誇り、野球、ラグビー、剣道や柔道などにおいて国内での優勝の常連校でもあった。さらに、芸術活動にも力を入れ、文武芸を実践している学園経営は世間の耳目を集めていた。
今や大川昇一は私学経営者としての評判のみならず、神奈川県での政財界で一目置かれる人物になっていた。ただ、生徒・学生の前で見せる柔和な教育者の一面と異なり、直言居士で剛腕な辣腕家としての側面があった。
そんな大川には、人を寄せつけない個性の強さがあった。そのため神奈川フォーラムに参加する政治家や実業家の二世は近寄ることがなかった。
元国語教師の大川昇一の講義では「夕川に 葦は枯れたり 血にまとふ 民の叫びの など悲しきや」の石川啄木の和歌が紹介され、足尾銅山の農民鉱毒被害を天皇に直訴した栃木県出身の田中正造の政治姿勢について論じた。
講義後、渉太郎は大川の控室をひとり訪ねた。祖父が鉱山業を営んでいたこともあり、農民の窮状に敏感に反応したのであった。
それが縁となって、大川は渉太郎の度胸のよさに多少なりとも関心を抱き、身の上相談に応じてくれたりした。以来、渉太郎にとっての大川は父のような存在になった。大川も何かと渉太郎を目にかけるようになった。
神奈川フォーラムに参加して以来、政治の世界にも少しずつ関心を深めていった。このフォーラムは民自党神奈川県連合会が後援していた。
渉太郎はある人の紹介でこのフォーラムに参加するようになった。渉太郎の祖父が東北地方の地方政治家であったことに由来する。その昔、祖父は鉱山業を生業に財を成し、地方政界でも名望を得ていた。
今の民自党が民主党と自由党の合流によって発足する前の民主党系の議員でもあった。祖父は裕福な士族の出身であったが、政治にのめり込んだ結果、財産のほぼすべてを政治活動につぎ込んでしまった。
いわゆる井戸塀政治家の典型と流布された。渉太郎の父が長男の戦死により家督を継いだ頃には、ごく一部の山林と田畑を除いて資産の大半は人手に渡り、引き継ぐ財産はほとんどなかったとされる。
当時、祖父の下で書生をしていた人が今は箱根で会社を経営していて、何かと幸田家を気にかけてくれていた。
祖父によく似た風貌の渉太郎には殊の外、関心を寄せていた。泥水を飲まされた境遇に憐憫(れんびん)の情を持ったのである。
得意の絶頂にあった地方の名望家と、大衆の中に身を置く青年との対比の中で、考えてもみれば、いくばくかの金と無私さにより社会に奉仕するまでになった恩人の立場に、この孫をなんとしても引き戻したいとの熱情と正義感にかられていた。
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