業界や業種によって、多少の濃淡はあるにせよ、日企連役員企業の代表者も奥山会長や深山会長の提案に概ね沿ったものであった。

これらを国際動向や社会動静に鑑みて、素案に集約してから、大神会長の判断の下、日企連の社会的責任指針(JCSR)の原案として日企連大神副会長名で日企連役員会に上程した。

役員会で了承を得た後、総会で承認を受けて、日企連行動憲章として社会に打ち出した。

渉太郎の秘書室での仕事は、事業部でのそれとは大きく異なり、一電機メーカーとしてのものづくりやサービスを超越していた。日本企業のあるべき姿を探求すると共に、全世界の経済活動による国際貢献に至るまで、人類共通の広範な課題と対応を創造することであった。

渉太郎は経済界の中枢での仕事にやりがいを感じていた。

秘書室ではかけがえのない経験もあった。ある外務省幹部の目黒の自宅に伺ったときのことである。大神会長からのメッセージを伝え、帰社しようとしたところ、外交専門誌が目に留まった。

「君は二十一世紀の日本外交の課題に関心でもあるのかね」

「卒論で『戦後日本外交の一考察』を記したことがあったものですから」

「それは興味深い。お茶でもどうだね」と、閣下は言われた。

必要とされる礼儀が備わっていないと思われることを免れるように誘いを受けた。書斎でコーヒーとケーキをご馳走になりながら、外交官としての世界観や外交折衝の難しさなどを聞く機会を持った。

自然体で話を聞くことができた。少なからず外交や世界情勢に関心を持つようになった。

「この仕事は意外にも自分の性に合っているのかもしれない」と渉太郎は思った。