第三章 突然の呼び出し
事業部時代のあの失態の光景を思い起こした。後ろめたさを感じながら、伏し目がちとなり、大きなテーブルに視線を落とした。目の前にいる人は確かに社員誰しもが知る人であった。
渉太郎にとっては、その存在の大きさから畏怖の念とカリスマ性を強く感じている大神会長その人であった。面と向かって会うのはこれが初めてのことであった。
最初に随行の部長から、人事ファイルと照らし合わせての、入社後の仕事内容について、型通りの確認が淡々と行なわれた。
しばらくのやり取りの後、
「会長からお尋ねがあります」
と、部長から言われた。
渉太郎は対座している会長に恐る恐る視線を合わせた。急に鼓動が速くなっていくのが分かった。
会長からの直接の質問は、あのときと同様に張りのある声であった。それがかえって部屋中の緊張を高めていた。
「小学校高学年の得意科目はなんだったかね」
予想外の質問に当惑した。
「国語と、理科と、音楽でした」
欲張って三科目も得意だったと答えてしまった。
「そこの〝ノーテ……〟」
大神会長が右手を軽く上げるポーズを取った。
渉太郎にはその〝ノーテ……〟の言葉が分からなかった。会長の手許に運ばれた譜面がおもむろに渉太郎の前に差し出された。
「これが分かるかね」
初めて見るドイツ語の譜面を前にして、答えるのを狐疑逡巡(こぎしゅんじゅん)していると、会長は左の口元の少し上あたりにある黒子(ほくろ)を左手の人差し指と親指で触れていた。この仕草は目の前にいるこの人の考えるときの癖なのだと思った。
そして、ほんの時折、顔を上げて渉太郎を一瞥する。
「wessen note ist das」
「Ja… ブラームスの交響曲第三番ですか?」
と、答えるのが精いっぱいであった。