「なるほど」
苦笑いをためていた。会長が席を立つ際、眼鏡の奥の両目が渉太郎をじっと見ていることに身も心も竦(すく)んだ。だが不思議にも決して悪い印象は持たなかった。
階下に降りて、人事担当の専務に、
「これから事業部に戻ります」
と、告げて帰ろうとしたところ、
「ちょっと待っていてください。今、内線電話が入りましたので」
言われるがまま待っていた。
「幸田さん。明日、またこちらに来てもらえますか」
と、丁寧に念を押された。
「来るようにいたします」
おうむ返しに答えた自分に驚いた。人の容貌や雰囲気は、その持ち主を推薦することになるのであろうか。
渉太郎は「本社ビルで仕事をするかもしれない」と本能的な予感がした。しかし、なぜ私なのだろうかとの思いがつのった。
いつもの雑然とした仕事場に戻ると、さっそく事業部長が渉太郎の席まで寄ってきた。あの一件以来、とがった物言いしかしなかった人が、今日に限って珍しく部下の席まで来たのには驚いた。
「人事部との面接はどうでした」
親しげに声をかけられた。
「面接だったんですか? 専務もはっきりしたことを説明されないものですから」
「これから宜しく頼むよ、幸田渉太郎さん」
と、事業部長に肩を優しく叩かれた。
社内では上下関係にかかわらず「さん」付けで呼ぶことが習わしとなっていた。しかし、事業部長の「幸田渉太郎さん」の呼び方には妙に含みがあるように感じられた。
何の面接だったのだろうか? 渉太郎は考えたが思い当たる節は浮かばなかった。
数日後、渉太郎の本社秘書室への異動が一九九七年十一月一日付けで正式に発令された。
月末の金曜日に事業本部を挙げての盛大な送別会がホテルで開かれた。参加した者のうち、少なくとも上席者の多くはお為ごかしを言う者が多かった。
渉太郎にとってはまさかの人事異動であった。