第四章 会長秘書

今、渉太郎はかつて大神社長の面前で大失態を演じたことを忘れたかのように、会長室の隣室で仕事をしている。不思議な力が働いているような気がしてならなかった。

異動先は本社人事部門秘書室。一カ月前に初めて訪れたあの広壮な場所であった。会長と社長のトップ・ツーが執務する領域である。いまだに、ふかふかの絨毯の感触が忘れられないでいた。

渉太郎は秘書室勤務の初日に大神会長に挨拶に伺った。二人っきりで話すのはこれが初めてであった。

「日本企業連合会(通称日企連)で私のサポートをしてほしい」

「具体的にはどのような仕事でしょうか」

と、大神会長を正視しながら尋ねた。

「日企連がCSRや危機管理マニュアルの指針を発表する。各社の意見を取りまとめる仕事だ」

「各社の代表との打ち合わせには同席させていただけるのでしょうか」

「ケース・バイ・ケースだ。一人で行ってもらう場合もある」

「畏まりました」

と、ミッションを受けた。

終始、大神会長は黒子(ほくろ)を左の親指と人差し指に挟んで触れていた。

隣の部屋の自席に戻ろうとしたところ、

「他に、中央官庁との調整もある」

「そのときになりましたら、ご指示ください」

と、答えて自席に戻った。

CSR(企業の社会的責任)と危機管理マニュアルの指針づくりのことを漠然と考えていた。日企連は、日本の代表的な企業一五〇〇社余りと業種別の全国九十団体から構成されていた。

仕事の手順やプロセスを大学ノートにフローチャート化し、仕事の大筋を把握している最中に、内線電話がかかってきた。

よく響く声だった。声を聞いただけで渉太郎の主と理解した。 

「海外からの要人が来社するので、外務省の儀典長と打ち合わせをしてきてくれ」

と、大神会長から直接指示が飛んできた。

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