第四章 会長秘書
渉太郎は、働きざかりの四十代中盤に差しかかろうとしていた。
妻が私立の小中学校に通う子どものために弁当を作っている早朝に家を出て、会社では秘書室の誰よりも早くに出社した。夜も遅くまで仕事に埋没した。
常にピリピリした張り詰めた空気が支配する毎日であった。四六時中緊張の糸が解(ほぐ)れることはなかった。
ただ、疲労感はなく、「使命感と意欲に燃えながら仕事に取り組めた」ことが嬉しかった。何よりのやりがいであった。そのことが渉太郎をいっそう光り輝かせていた。
大神会長の名代で、大阪の総合酒類食品企業の社葬に行ったときのことである。この会社はウイスキーをはじめ日本の洋酒文化の先駆けであり、ビール、清涼飲料や健康食品にまで事業分野を広げていた。
企業の名前を冠したスリーバードホールは世界一美しい響きを目指して、大神会長もホールの設計から竣工まで関わっていた。
そんな関係で、供花は弔意を込めて大神会長の個人名で贈る旨を、先方に前もって伝えておいた。渉太郎はこの大阪の企業に限らず、お弔いのときの香典、供花、弔電などに関しては細心の注意を払って対応した。
それは、さる政治家がお通夜と本葬ごとに供花を替えることを常としていたことに由来する。渉太郎もそれに倣ってみたところ、関係者から頻りに感謝された。なるほど大神会長の信頼度を大いに高めることを証明する証左といえた。