その言葉と白檀(びゃくだん)のほのかな残り香をため込み、他の場所に移って行かれたことなどを思い出した。

下戸の渉太郎はついぞその料亭に一人で行く機会がなく、企業トップに成ることはなかった。女将の一言は当たっていた。

しかし、茶道のお家元には知遇を得ることができて、そのことが今でも大いに役立っている。

渉太郎は井田社長とは直接仕事で関わることは少なかった。秘書室での仕事にもようやく慣れてきた頃、井田社長の考え方は社内で驀進しだした。新聞・雑誌に記事が出ない日はないというほど、マスコミへの露出度が高く、なおかつ自社のプレゼンスを社外にも高めていた時期と重なった。

ある日、「自動車用のバッテリー」のプロジェクトが実現しないことを知った。投下資本と成果の関係で、早期に利益が見込めないというのが主な理由のようであった。 

渉太郎が帰属する会社は業界に先駆けてリチウムイオン電池の量産化に成功し、一九九〇年代後半にはパソコンや携帯電話に使うバッテリーはもはや製品のキーデバイスとしての位置づけを確保していた。

半導体、バッテリー、LEDの次には「自動車用バッテリー」が、中国やインドなどの工業化を目指す新興国で、必ず量産化されると考えたからであった。

「ブラウン管テレビが液晶テレビに取って代わられたように、ガソリンエンジンもいずれ終焉を迎える」と渉太郎は考えていた。  

「自動車用バッテリー」がガソリンエンジンに取って代わることが十分予測される中で、このプロジェクトが、なぜつぶれてしまったのか不思議でならなかった。

トップの判断に唯一疑問を持った瞬間であった。

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