生い立ち編 「勉強こそが人生を切り拓くと信じて」

1.両親の時代

昔はサラリーマンよりも自営業の方が儲かり、やり甲斐もあったのだろう。49歳の時に会社役員を投げ出し、夢をもう一度ということで2度目の小売商を疎開地の近くで創業した。

戦前戦後は自営業の方がサラリーマンより遥かに収入が多く裕福になれた。戦後は労働組合が強くなりサラリーマンは毎年給与が上昇したので、気が付けば大半の自営業者よりもサラリーマンの方が収入は多くなっていた。

●自営業の開設と私の仕事

当時の自営業は自分たちで職場を作り、身の丈に合った仕事を継続する。その為に家族は貴重な労働力で父もその考えで自営業を経営していた。従って、大きな会社を作る目的ではなく、自分たち(家族を含む)の職場を構築するのが目的だったように思う。

だから、父の経営は戦略に基づく経営ではなく、成り行き任せの経営と思えてならない。

父はサラリーマン時代にも、母に毎日畑仕事の指示をしていた。私は小学校から帰ると母と共に畑仕事が待っていた。父は49歳の時に燃料と食料品の小売商を両親と姉で開業したが、人手が足りない。燃料の配達員とか店の後片付け等の力仕事が私の仕事になった。また、父は尋常小学校しか出ていないが社会大学で勉強をしてきたと、はばからない。

これらの経験からだろう、「勉強をする必要はない、家の手伝いをしろ、困ったことに出会えば社会から学べ」の方針で私を厳しく育てた。二宮尊徳像と同じ薪を背負う道具『背負子(しょいこ)』で小学校5年生から中学生頃までは炭とか薪を配達した。高校からはバイクになった。休日は当然のこととして、学校から帰ると手伝いをさせられた。我が家は徐々に家族総出で働く体制となっていった。

中学3年生の時に校長先生が朝礼で〝親の手伝いでヤミ米を運ぶのは悪いこととは思わないが、帽子を脱いでやって欲しい〟と言われた。私のことだと直ぐに分かったので、次の日から帽子を脱いで手伝った。

戦後の混乱期に育った子供たちが働くのは私だけではない。幼少期は両親の方針通りに生きざるを得ない。家では従順な良い子だが、気が付けば学校では勉強ができない落ちこぼれの敗者になっていた。

同級生の女性も子守ばかりさせられ勉強等はできなかったと証言している。小さな子供を連れて学校に来ている生徒がおり、先生が困っておられたのを記憶している。児童福祉とか労働基準法なんかは関係のない時代だ。

今から考えると完全な児童虐待に当たると思うが、父はもっと厳しい時代を過ごしてきたので、文句はいえない。

しかし、日本政府は子供の教育に力を入れ巨額の資金を注ぎ込み勉強をさせようとしているが、父は自分の子供に勉強をする必要はない、家の手伝いをしろと強要した。父の方針は国家方針にそぐわない行為ではあるが、悪気はないし父は自分の方針が正しいと信じていた。勿論、誰も私を助けてくれる人はいない。

コメ行政に関わりながらヤミ米を販売していた。ヤミ米を販売しても捕まらないと確信していたのだろう。社会正義には無頓着で、税金も払いたくない人だ。私とか家族には厳しい面があったが、人の為なら若干の社会正義に反することをいとわない面もあった。

勿論、報酬は貰ってないが、家族からは非難されていた。勿論、私も大反対で、そんな父を軽蔑していた。父を反面教師として育った。父は勉強もしてないため帳簿の付け方とか簿記も分からないので、税務署が怖い存在となっていた。