生い立ち編 「勉強こそが人生を切り拓くと信じて」

1.両親の時代

私は広瀬家の長男として昭和16年12月20日に神戸市で生まれた。太平洋戦争は昭和16年12月8日に始まったので、戦時中に生まれたことになる。

太平洋戦争は昭和20年8月15日に終戦を迎えるが、大変な時期に生まれたものだ。勿論、戦争と終戦後の混乱期を生き抜いた両親はもっと大変だっただろう。

私の人生は両親の生きてきた時代とか両親の考え方に大きな影響を受けてきたので、両親の生い立ちから話を進めたい。

両親は奈良県高市郡高取町で明治36年に各々7人兄弟の農家の長男と長女として生まれた。父は尋常小学校を卒業後、神戸の米屋に11歳で丁稚奉公に出た。当時は「産めよ、増やせよ」の時代で現在の少子化の時代とは全く異なる。

現在の義務教育は小学校と中学校の9年制度であるが、当時は尋常小学校を4年生で卒業となる。しかし、貧乏な家庭の子供は直ぐに働きに出る。父は食い扶持減らしと呼んでいた。

両親からは尋常小学校の話をあまり聞いたことがないので詳しいことは分からないが。厳しい家庭環境であり勉強どころではなかったと思える。

父は長男でもあり、家の手伝い(農業)を一生懸命していたので、近所の隠居さん(旧武士)に見込まれ、習字を教えて貰った。習字は上手で現役引退後は近所の奥様方とか子供に習字を教えていた。それでも私は両親から習字を含めて勉強を教えて貰った記憶は全くない。

両親は20歳で結婚し、米屋を神戸市の新開地で開業した。経緯は知らないが大変な努力があったと推定される。母の学歴を知らないが尋常小学校を卒業後、農業を手伝い、お見合いで父と結婚したと思われる。

母は師範学校に進み教師になるのが夢だったと言っていたのを聞いたことがある。母は勉強ができたのかも知れない。母の実家は庄屋をしていた。母の父は奈良県で県会議員をしていたが、持ち出しが多くて生活は苦しかったらしい。母の弟もその子供も町会議員をしていたから、政治家一族だ。

母は私が小学校の入学時に、自分の名前を書けなかったとか、ノートの使い方を知らなかったと嘆く。名前を書けない息子の母として、恥ずかしい思いをしたのだろう。