母からは何度も「この子は勉強ができない」と言われて育った。実際、私は勉強をしないしできなかった。
言葉は勝手に喋れるが、字は勝手に書けない。誰かが教えなければ書けないし両親から教えて貰ったことはない。勿論、幼稚園にも行っていない。優しい母ではあるが従順で気楽な性格を持っていた。父はがみがみ言うタイプでうるさい父であるが、理屈には筋が通っている。
選挙になると即興でマイクを握り特定の市会議員を応援していたので父も政治好きだった。両親の性格は全く異なるが仲は良く、喧嘩をしたのを見たことがない。母は父の言いなりになっていた。その方が居心地は良かったのだろう。
戦前に父の始めた米屋は繁盛した。自転車とか馬車の時代ではあるが、自動三輪車を購入しハイカラさんで通っていたようだ。しかし、戦争が始まると米は配給制度になり米屋は全て統制経済になりサラリーマンに組み込まれていった。
父は10年程度サラリーマンを経験し、最後は米穀会社で常務取締役となっていた。私は神戸市(新開地)で生まれたが、戦争の機運が漂い危険を感じた父は神戸市の山の手(長田区、鶯町)に比較的大きな一軒家と農地を借り疎開をした。
神戸大空襲で新開地一帯は焼けてしまったが、疎開のお陰で家族は生き長らえた。父の「先見の明」のお陰だ。
両親の兄弟たちも生誕地(奈良県)では食っていけないので、神戸で働いていたが、大空襲で焼け出されていた。父は面倒見が良く何家族もの人たちが我が家で生活をしていた。
人様のお世話をするのに大変な力を入れていた。畑では沢山のサツマイモが作られ地下室に保存されていたので食糧には困らなかったようだ。不思議なことに父は戦争に召集されなかった。
父は社会変化に敏感に対応し、我々家族とか親族を守った。ご近所の人にも自宅の風呂を開放していたので心の優しい人だし、父の人生観として、「お互い様」の助け合いの精神が強かった。
【前回の記事を読む】「勉強をする必要はない、家事を手伝え、困れば社会に聞け」と言って私を育てた父