アザレアに喝采を

Ⅰ 節制

真夏の昼下がり、課長が一万円札を差し出した。

「杉山さん、これで抹茶ソフト買ってきてくれる? 皆で食べようよ」

栞の勤める会社の側には老舗のお茶屋さんがあって、その店の抹茶ソフトクリームは濃い抹茶の味わいがとても人気だ。

「はーい、課長、ありがとうございます! これで午後も頑張れそうです! 行ってきます!」

月末のことで誰のデスクの上も、作成し始めた得意先向けの請求書や入力しなければならないデータが山積みされている状況だ。それでも課長のご指名を受けた美香は、厭(いと)わず席を立ち上がって、喜んで買いに出て行った。

いつも愛嬌がたっぷりあって親しみやすい美香は、同僚や先輩からだけでなく上司からも気に入られていた。電話が鳴って、受話器を取る前に栞は大きなため息を一つついた。

それは月末の入金や支払いの処理など、経理事務の煩雑な業務に追われているからではない。昨年までもこの時期には、誰かしら抹茶ソフトを差し入れしてくれることはあった。

けれど今はダイエット中で食べるわけにはいかず、困ったことになったと憂鬱に感じていたのだ。ダイエットのことは恥ずかしくて、美香にも誰にも内緒にしていた。抹茶ソフトは手渡されたら口に入れる以外、ほかにはどうすることもできない。

溶けてしまうので、「後で食べます」とどこかに置いておくこともできないから誤魔化しようがない。個包装されたお土産のお菓子などとは違って、扱いに困るのだ。

間もなく美香が戻って来て、事務所にいる全員に抹茶ソフトが配られていく。栞はその場から逃げ出したい衝動に駆られたが、ひとまず差し出されるままに受け取った。

食べてしまおうか、いや、食べるわけにはいかない、手が滑ったふりをして床に落としてしまおうか。あれこれ思い巡らせた末にその場にいたたまれず、栞は抹茶ソフトを手にしたまま事務所をそっと離れ、ひとり給湯室に向かった。けれど給湯室で食べるなら、さっき皆と事務所で一緒に食べる方が自然だった。

頭の中では「食べる、食べない」と堂々巡りしていたが、ついに「食べない」と決めた。その時、茶殻を捨てる蓋つきの黄色いバケツが目に入った。これに隠して捨てに行こうと思いつき、栞はバケツの中に急いで抹茶ソフトを隠し、そっと事務所を出た。

エレベーターホールを抜けて廊下を突き当りまで歩く。その距離がとてつもなく長く、遠く、右手に持ったバケツがやけに重たく感じられた。

誰かに会ったらどうしよう、誰かに呼び止められて咎(とが)められたらどうしよう、栞は胸の鼓動が途端に早くなっていくのを感じた。