「最近、公男とあまり会っていないの。電話でも長話をしなくなって、相談ごとを話しても何か上の空みたいに受け流すし、変なのよね……。祐介君、何か心当たりない?」
「特に変わったことはないと思うけど……。一緒に飲めば、いつも慶子さんの話ばかりして、聞き飽きたけどね」
祐介は、そう言って、わざとらしく笑って見せたが、すぐに自分の言葉に嫌気がさした。客が一人店内に入ってきた。その人影がよろけながらこちらに近付いてくるのが分かった。
「おい、お前らここで何してやがる」
いきなり、テーブルの上に出ていたアイスボックスがひっくり返った。白い氷がテーブルと床に散らばった。慶子は驚いて言葉も発せられずにいる。安田は、かなり酔っている様子だった。
安田とて素面(しらふ)で演じられるだけの度胸はなかったのだろう。呂律(ろれつ)の回らない言葉であったが、祐介と慶子をさんざん罵った。慶子は、泣きじゃくりながら、必死になって誤解を解こうと、事のいきさつを安田に訴えかけている。
カウンターにいる数名の客や店員たちが驚いて、こちらを凝視している。祐介はそれに気付いて、すぐさまカウンターで料金を支払い、安田と慶子を店の外へ連れ出した。すると、安田の平手が、いきなり祐介の頬を捉えた。
祐介は、本気で殴られた。なんだこいつと、祐介は拳を握り締めたが、ふと我に返ってその手を緩めた。こうして、安田の思惑通りに事が進み、その後、安田と慶子との関係はプッツリと途絶えた。
第2章 魅惑のヴィーナス
あの出来事から一週間後、アパートのドアを勢いよく叩く音に、祐介は眠りを覚まされた。目覚まし時計の針を見ると何と明け方の五時を回ったところだった。
ドアを開けると、ドアに凭(もた)れかかっていた安田が倒れ込むように玄関の床にひざまずいた。祐介は安田に、靴を脱いで部屋に上がるよう促したが、コンクリートの床に両肘を着けたまま動こうとはしない。
これまでも酒に酔った安田が、突然部屋に転がり込むことがあった。いつものことかと台所に行ってコップに水を注ぎ、再び玄関に戻った。
すると、安田は握り拳を床に勢いよく打ち付けていた。祐介は慌てて安田の両腕を掴んだ。すでに、右拳の皮が抉(えぐ)れ、血が流れ出ていた。
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