第1章 美沙と慶子

果たして、慶子にとって深く思いを寄せる安田が裏切ったことを知る悲しみと、他の男と付き合っているように誤解される悲しみとを比べた場合、どちらの悲しみが深いのだろうと、祐介はふと想像してしまった。

祐介には、最愛の母が理由も告げずに家を去って行った幼い日の辛い記憶が蘇った。なぜ可愛がってくれていた自分を置いて出て行ったのか。どこに行ってしまったのか。

父や祖母が言い争う気まずい雰囲気の中で、誰にも聞けぬまま過ごした途方もなく長い時間を漂っていたことを思い返した。自分は母に裏切られたと恨んで過ごしてきた。

どうせ別れるなら、慶子が美沙への敗北感と安田への恨みを抱きながら失意の底に落ちていくよりは、慶子と自分との関係を安田に疑われ嫉妬されるようにして別れが訪れる方が、慶子にとって幸せなのではないかなどと次第に思い始めていた。

そして、最初は冷酷に感じられた安田の言葉だったが、しまいには妙に納得させられてしまった。

慶子の気持ちを勝手に天秤に掛け、結局は安田の口車に乗せられて陰謀の片棒を担(かつ)ぐことになった祐介は、安田の言う通り電話を掛けて来た慶子と、新宿駅東口前で夜の七時に待ち合わせた。

祐介は先に到着して、人の通行を邪魔しないよう駅の出入口の壁に寄り掛かるようにして、木枯らしが足元へ運んでくる紙屑や落ち葉の行方を目で追いかけていた。やがて、黒襟の赤いコートを纏(まと)った慶子が現れた。

「祐介君、寒そうだけど大丈夫? マフラー貸そうか?」

ブレザーの襟を立て、両腕を組んで胸元を温めている祐介に、慶子がそう呟いた。祐介は、首を横に振った。これから自分がしようとしていることを考えると、その親切が風の冷たさ以上に胸に突き刺さる。祐介は、そっと溜息をついた。

歌舞伎町の歓楽街は火曜日とあって、人通りもまばらで閑散としていた。客引きの男たちも暇そうにたむろして、タバコをくわえて競馬の話をしている。横を通り過ぎても、カップルには全く無関心のようだ。間もなく、パブ「オードリー」に着いた。

分厚い木のドアを押し開けると、レイモン・ルフェーブルが演奏する『シバの女王』が優雅に流れてきた。靴底が深く沈む赤い絨毯をぎこちなく踏みしめ、若いウエイターに案内されるまま二人は壁際の角の席に腰を掛けた。ここまでは計画通りだ。

「祐介君、今夜は付き合ってくれてありがとう。電話で話したけど、公男のことでどうしても相談したいことがあって……」

祐介と慶子はオールドのオンザロックを注文した。