ザ・バサラ
何故なら信長はこの時すでに一万人の兵力があったと推定されている。
信長は部署ごとに武将を配置し、全体を組織化し掌握する仕組みを築いていた。その仕組みを的確に運用するには誰かが相談相手としなければならない程のスケールと兵力になっていた。
領土の統治管理から年貢の徴収、武器、糧食の手当て、金庫番、外交と経済を含めた一国の支配者となって領土を治めていたからである。
信長は上洛した後も幾多の波乱荒波が待ち受けていた。しかしそれを乗り越えようとした。信長に背をわされた宿命と言えよう。
信長の生きざまは絶えず前向きで、進歩性、革新性が見られた。信長は、困難辛苦を無視し、なをかつ、誰もが想像つかない行動を起こしている。
《信長 桶狭間の戦い後の戦略と実態》
永禄三年 信長二十七歳 桶狭間の戦い
永禄四年 斎藤義龍 死去
永禄五年 松平元康と清州同盟
長女五徳と松平元康長男信康と婚約
永禄六年 小牧山城を築く
永禄七年 浅井長政、武田信玄と同盟
永禄八年 浅井長政、信長妹お市と婚約
足利義輝が殺害される
覚慶(義昭)は逃げて朝倉を頼る
永禄九年 美濃に侵入し敗退
朝廷より尾張の守を賜る
綸旨 朝廷のために領土、年貢を回復せよ
永禄十年 お市 浅井長政に嫁入り
五徳 信康に嫁入り (ともに九歳)
信長 ついに稲葉山を攻略し居城を岐阜に移す。妙心寺師僧 沢彦宗恩の助言によ り「天下布武」の韻文を作る
永禄十一年 足利義昭を擁して上洛し畿内を平定する
永禄十二年 二条城を築く
堺、大津、草津に代官を置く、流通を支配下に治める
木下藤吉郎に命じ生野銀山を手中に入れる
元亀元年 朝倉を攻める、浅井の離反によりからくも撤退する
明言「是非におよばず」といい迅速に逃げた。
徳川家康と連合し「姉川の戦い」で朝倉、浅井連合を打ち破る
摂津で三好党と戦う
石山本願寺との戦いが始まる。十一年に及ぶ
元亀二年 長島一向一揆との戦い始まる
比叡山を焼き討ちする