ザ・バサラ

「つまり道三が築いた城下町に修正を施して都市の骨格を形成しています。この町割りは現在も残されております。旧名が今も幾つか使われています。名前も井の口の里から岐阜と変えました。名前の語源は中国の地名から取り入れて、沢彦宗恩が名付けたと言われています。

この総構の南において、楽市楽座の立て札を付けた市が開かれました。南にあたる中山道加納宿との真ん中にあたります。それで双方の町から人が集まり賑わうようになりました。総構え城下町には、津島の商人や小牧城の住人も移住しております。それらにより人口は一万人余に膨れ上がったと言われます。

そして稲葉山山頂に天守を築いた。その後、西側中腹から流れ落ちるけやき谷に沿って信長公居館が造られた。信長は安土に移るまでの八年間、ここを本拠地として暮らした」

優の説明は悠子も大方知っている。教科書にもよく掲載されている。

城下町周囲に築いたお土居は区域割りの役目を有している。そのお土居による総構えの町づくり手法はその後の後継者、秀吉が京都の町づくりに模倣して町を築いています。

つまり信長が始めた町づくりの手法はその後造られた他の都市、京都や小田原などの町づくりに生かされているのです。

「優くん、信長は岐阜の地に居城を構えた。そしてこの地で始めて「天下布武」という印判を使用し始めた。これは沢彦宗恩の教えによるとあります。彼は信長の師僧ですが、その関わりはどうなっているのでしょう。信長の思想にどんな影響を与えたか知りたいわ」

優は手持ちのノートから沢彦宗恩の資料を取り出した。

「臨済宗妙心寺は京都五山派とは別格の禅宗一派です。浄土真宗と同じく比較的新しい仏派です。農民、船方衆に多い浄土真宗に対し、武士や町衆および商人に多いのが妙心寺派です。実務的な活動、合理的な思想は京の町衆から算勧寺と揶揄されています。妙心寺派は概ね地方において勢力を興しています。

武田信玄の師僧、快川紹喜は同じ臨済宗東海派です。一方、今川義元の師僧であった太原雪斎は臨済宗建仁寺派でした。室町時代中期から御経を唱えるだけの宗教の一線を越えて、政治や経済、戦いにまで関与していくようになっていきました。

沢彦宗恩は信長の付家老、平手政秀が勉学を嫌う信長に手を焼いて最後の手段として送り込んだ僧侶です。平手政秀が信長との諍いにより自害した後、信長は政秀を弔うために政秀寺を建立し宗恩を住職に迎えています」

「信長は師僧として宗恩に教えを受け、有事にはアドバイスを受けていたようです。かなり信頼していたように見受けられます。禅宗の僧は仏道を鍛えられおり、仏教教理を教え込まれています。紹喜、宗恩はいわば妙心寺のエリートでした。その後、妙心寺の管長にもなっています。天才信長も宗恩の知識、知性には目をみはったことでしょう」