大学昇格をめざす動きも私立学校側には早い時期から見られました。慶應義塾は安政五年(一八五八年)に福沢諭吉によって設立されましたが(慶應義塾を名のったのは慶應四年、一八六八年のことで、この年は明治元年ともなる)、当初は中等レベルの教育を行っていたものの、明治二〇年頃から大学化を考えるようになります。

そして明治二三年に「大学部」を設置し、その卒業生に「慶應義塾学士」の称号を与えることにしたのでした。

帝国大学を出ると、例えば「法学士」という称号が得られますが、慶應の場合学校名が付いているのは、政府と私立学校側の妥協の産物であったのではないかと天野郁夫は推測しています。

慶應と並び私学の雄とされる早稲田大学の場合はどうでしょうか。明治一五年に東京専門学校として大隈重信により設立されたこの学校は、明治三五年に早稲田大学と名のることを政府から認められます。

多くの私立校がこれに続き、明治三七年には大学と名のる私立校は十九に及びました。先に見た明治大学や日本大学もそうでした。しかし、すでに述べたように、名称は大学であっても法的にはそうではなかった。

そして私立大学の位置づけを明確化する法律がこの時期に公布されます。それが専門学校令だったのです。

明治三六年(一九〇三年)に公布されたこの法律は、一方では私立大学を専門学校というカテゴリーに、つまり帝大より下に位置づけるものでした。

私立だけではなく官立や公立の学校も含めて、専門学校は帝大と中学の間に位置する学校という構図をはっきりさせたのです。

中学(五年制)を出た後に進む学校として高校と並んで専門学校を置き、高校は卒業して帝大に進むのに対して、専門学校を卒業した人間は実社会に出ていくという原則がここに成立します。

また、そうした政府の方策にはそれなりの理由もありました。例えば当時の早稲田大学の場合、中学卒業後に一年半の予科を経て専門課程に入るという、言うならば速成コースであり、帝国大学が中学卒業後に三年制の高校を経なければ入れないのと比べると明白な差がありました。

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