それは永禄(えいろく)六年(1563)、かの桶狭間(おけはざま)の合戦の三年後、京から北陸、北関東、南東北、越後、飛騨美濃まで一年間に渡り旅をした、京都醍醐寺(だいごじ)の僧侶が記した「北国下(ほっこくくだ)り遣足帳(けんそくちょう)」なるものである。

この僧は二人連れで、旅の先々で酒を呑み、旅を楽しんでいた形跡が見られる。

その書き残された支払いの明細から、戦国時代にはすでに旅籠やお寺などの宿泊設備が充実し宿泊や食事、川や湖沼を渡る舟や、山を越える馬の手配などの料金が一定していて、快適に旅行出来た事が読み取れるのである。

恐らく公的な上申用のこの会計帳簿からは、一泊二日で朝飯と夕飯が付き二十四文(三千六百円)と、旅先のほとんどの旅籠が同じ金額である事や、日本全土に渡り価格設定に一定の統一性を見出す事が出来る。

試算によれば一文は現在の百五十円程度の価値であるらしいが、貨幣価値の換算は難しく、時々で価値も変わる事から、分かりやすく一文百円と考えても問題ないと思われる。

舟賃四文、昼食代十文、酒代十五文~三十文とほぼ一定である事から、広汎な旅の需要と供給が成立しており、江戸時代のような旅行の制度や体制が、すでに出来上がっていたと考えられる。

 

源五郎は熊吉につき丸を預け、待ち合わせ場所を決めて別れた後、参道を通り抜けて鬱蒼たる樹林をくぐり社殿の前に立った。

「国造本紀(こくぞうほんぎ)」によると、この氷川神社(武蔵一宮)は初代天邪志国造(しょだいむざしのくにのみやつこ)の兄多毛比命(えたけひのみこと)が成務(せいむ)天皇(第十三代天皇)の時代に、出雲族を引き連れこの地に移住し祖神(おやがみ)を祀って氏神(うじがみ)とし当社を崇奉(すうほう)したという。

社名の「氷川」も出雲の簸川(ひかわ)に由来し、神社の境内は見沼(江戸時代まで存在した広大な沼)の畔にあり、もとは見沼の水神を祀っていたとされる。

手を合わせ旅の無事を祈り帰ろうとすると、先程の渡し舟で同船した牢人達が目に入った。

軽く会釈し通り過ぎようとした時、二人の牢人の内の一人が声をかけてきた。

「これはこれは……先程ご同乗された若武者殿ではないか?」

と問う声には、酒の匂いと揶揄(からか)いの響きがこもっている。

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